33.家族じゃなかった

 わたしは深呼吸を繰り返した。

 大きく息を吸って、深く吐く。ただそれだけなのに、頭の中がすっきりしてくるから不思議。


 窓向こうの空は荒れていて、稲妻が空を走るのが見えた。遅れて低い雷鳴が聞こえる。まだ少し遠い。


「まず……オルソン研究員。わたしの業務を外部の者に漏らすのは守秘義務違反です」

「ちょっとだけだろ。固いな、アンジェリカは」

「これは後程、上司に相談させていただきます」

「や、待て。別にそこまで大袈裟にするものじゃないだろ? これから俺と関係を築いていくんだから、そんな不和の種になるような事しなくてもいい」

「オルソン研究員と結婚はしません」


 いつもは先輩と呼ぶし、多少の気安さはあったと思う。でもそれを一切排除してオルソン研究員を拒んだ。


 彼は焦ったような顔をしていて、何かを考え込み始めた。きっと守秘義務違反の誤魔化し方だろう。


「そんな言い方、可愛くないわ。だから誰にも愛されないのよ」


 ふふ、とエドラが鈴の鳴るような声で笑う。

 わたしはひとつ溜息を落としてから、エドラの赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。


 母と同じ赤い瞳。それがとても羨ましかった。でも、もう焦がれたりしない。


「ヴィクトル様とわたしは上司と部下であって、それ以上の何もない。だからプライベートに踏み込むような、女性を紹介するような事もしないわ」

「もう、本当に融通がきかないんだから。ちょっと紹介するくらい、無能でグズなお姉様にも出来るでしょ。使えないわね」

「使えなくてもいいわ。それよりもエドラ、あなたの婚約者はどうしたの?」


 夜会の時もエドラの後ろにいた男性を思い浮かべる。

 ヴィクトル様は彼の事をエドラの婚約者だと言っていた。


 婚約者が居ながら他の男性を紹介してほしがるなんて、それはあまりにもひどい話ではないだろうか。


 わたしの問いにエドラは唇を尖らせた。不貞腐れたようにぷいと顔を背けてしまう。


「お姉様が悪いのよ」

「わたし?」

「夜会であんな姿を見せるから」

「どういう意味?」

「惑わされるなんて、ただそれだけの男だったってだけよ」


 まったく意味が分からないのだけど。

 随分と回りくどい言い方をするのは、これが貴族の会話というものなのだろうか。貴族らしい生活からは掛け離れているし、ヴィクトル様もそんな言い回しをしないからよく掴めない。


「エドラ嬢は婚約者と別れたそうだ。婚約も破棄したんだろ?」

「そうよ」


 ラウリス先輩が笑いながらそんな事を口にする。いまだ口を尖らせたままのエドラはそれに頷いた。


「婚約破棄……?」

「そう、お姉様のせいでね。もちろん相手方の有責だけど」

「ちょっと、わたしのせいって意味が分からないんだけど」

「あの坊ちゃんはアンジェリカとの婚約を望んだそうだぜ。美しくて優秀な姉が居るならそちらと婚約を結びたいってな」


 笑み交じりに軽い調子で言葉を紡ぐ先輩とは裏腹に、エドラの機嫌は急降下していく。

 わたしはというと、まだ混乱から抜け出せていなかった。


「そんな言い方やめてくださる? 別れを決めたのも、告げたのも私の方よ。彼が言ったその言葉はただの負け惜しみ。私はヴィクトル様と結ばれるんだから、彼はもういらないの」

「はいはい、そういう事にしておきますか」

「本当に無礼な男ね」

「姉の方が選ばれて、プライドを傷付けられちゃったか」

「もう黙りなさい! お姉様と結婚出来ないようにするわよ!」


 揶揄うようなラウリス先輩の言葉に苛立ったエドラが勢いよく立ち上がる。その拍子に椅子が倒れて大きな音がした。


「それは困るな。じゃあ大人しく黙っておくとしますか」


 まだ薄笑いを浮かべながら、ラウリス先輩は数歩下がった。

 エドラはもう座るつもりもないようで、立ったまま胸の前で腕を組んでいる。憎々し気にわたしを睨む瞳に怯んでしまいそうになる。


 でも、わたしは──わたしの意思をはっきりと示さなくてはいけない。

 それが出来ないなら、前と同じだ。


「わたしの結婚をあなたが決めないで頂戴」

「私が頼めばお父様が決めて下さるもの。おかしなところに嫁ぎたくなかったら、私の言う事を聞いていたらいいのに」

「ヴィクトル様を紹介する事はしない。いい加減に聞き分けて」

「何なのよ、もうっ! いつもはそんな口の利き方しないのに、着飾って変な自信をつけてしまった? どれだけ見た目を整えたって、お姉様を愛してくれる人なんていないのよ。誰もお姉様に目を向けない。お姉様を認めない。今までずっとそうだったでしょ」


 傷付けようと明確な意図をもって紡がれる言葉たち。

 それがわたしに刺さらないわけじゃない。悲しいし、苦しいし、泣きたくなる。


 でも彼女の言葉全てが、本当の事ではないって知っているから。


「あなた達がわたしを認めてくれていないだけよ」

「ああもう! イライラする! お姉様、本当に家族でいられなくなるわよ!」


 癇癪を起こしたエドラは、子どものように床を踏み鳴らす。

 あまりの大声に、ラウリス先輩が慌てて防音魔法を使うのが分かった。これだけの騒ぎを起こせば誰かが様子を見に来るかもしれない。

 これ以上わたしが何かを言えば、エドラはもっと怒るだろう。でも、黙ってはいられなかった。


「元々、わたしは家族じゃなかったでしょう」


 それを口にするのは、やっぱり勇気が必要だった。

 まだエドラが何かを言おうと口を開いたけれど、わたしは立ち上がってドアへ向かって駆け出した。


 ドアを開けるとラウリス先輩が駆け寄る気配を背中に感じたけれど、もうぶつかってもいいと思ってドアを叩きつけるようにして閉めた。

 そのまま、また走り出す。


 やっぱり騒ぎは聞こえていたのか、こちらを気にするような研究員達がいたけれど、わたしは彼らと目を合わせる事なく廊下を走った。


 稲光が空に走る。すぐに鳴った轟音が、わたしの体の内側まで震わせるように響いてくる。

 浮かんだ涙は何のせいなのか、分からなかった。

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