32.真綿の記憶

 会議室の机を挟んで、エドラと向かい合う。

 ラウリス先輩は座らずにわたしの隣に立っている。今すぐにでもこの場を立ち去りたいのに、きっとそれは叶わない。きっと引き留められてしまうだろう。


「……どうしてエドラがここに? 研究のお話を聞きにきたんですが……」


 ラウリス先輩を見上げながらそう口にする。非難の色が声に載ったのは仕方のない事だと思う。

 心臓の音が耳の側で聞こえるみたいに、緊張が治まらない。

 夜会の時は非日常感があったから対峙出来たんだろうか。今はやっぱり、少し怖い。傷付けられる事を恐れてしまう。


「私が頼んだの。お姉様とちゃんとお話がしたくて……」

「研究の話もするさ、ちゃんとな。でもまずは家族間の拗らせをどうにかした方がいいと思ってさ」


 緊張で喉が渇く。唾を飲み込む音がやけに大きく響いた。


「……話って、なに?」


 テーブルの下で拳をぎゅっと握り締めながら問いかけた。

 きっとまた傷付く言葉を掛けられるんだろう。家族に縋らせるような、そんな言葉を。


「お姉様、ごめんなさい」


 か細い声で紡がれたのは、予想していたどれとも違った。

 エドラの赤い瞳が不安そうに揺れている。うっすらと涙の膜が張ったかと思えば、つぅと一筋の涙が頬を伝って流れていった。


 それを見て、わたしの脳裏に浮かんだのはエドラが生まれる前の事だった。

 まだ両親もわたしを見ていてくれた頃。

 母の大きなお腹に口を寄せ、生まれる事を楽しみにしていると告げていた記憶。


 生まれた時には嬉しくて、可愛くて、守りたいと思った。

 わたしの大切な妹。わたしはお姉ちゃんだから、妹を守って、妹に優しくしてあげたいって、そう思ってた。

 わたしの宝物だった。


 そんな真綿のような優しい記憶が蘇る。その真綿はわたしを苦しめるだけだと分かっているのに、それでも……エドラはわたしの可愛い妹だったのだ。


「家族じゃなくてもいいなんて、そんな悲しい事言わないで」


 感傷が渦巻いているからか、エドラの声がいつもより幼く聞こえる。甘えるようなその声に、わたしの気持ちは揺らいでいた。


 諦めたはずなのに。

 心の奥底でまだ求めているのだろうか。

 手が震えて落ち着かなくて、更にぎゅっと拳を握る。爪が手の平に食い込んで痛みが走った。


「私はお姉様の可愛い妹でしょう? 妹のお願いを聞いて欲しいの」

「……お願いって?」


 わたしはまだ謝罪を受け入れていないのだけど、わたしの様子から気持ちが揺らいでいる事が分かったのだろう。

 甘えるように笑ったエドラは、ひどく美しかった。


「ヴィクトル様を紹介してほしいの」


 頭を殴られたような衝撃だった。

 予想外の言葉に目を瞬くしか出来ない。動揺に思わずラウリス先輩を見ると可笑しそうに笑っている。

 ……先輩はエドラの話が何なのか、知っていたんだ。

 家族間の拗れとか、そういうのなんて関係ないじゃない。ただエドラのお願いを聞く為だけに誂えられた場所なのだ。


 先程まで、心の中を渦巻いていた切ない記憶が消えていく。

 別に裏切られたわけではないのに、そう思ってしまう自分に溜息が漏れた。


「ヴィクトル様がお姉様を選ぶわけないんだから、早く現実を見た方がいいと思うの。お姉様は何だか難しいお仕事をしていて、ヴィクトル様がそのサポートをしているんでしょ? 優しくされるのはお仕事の為だって分かった方がいいわよ」

「……なんでわたしの仕事を知っているの」

「聞いたから」


 そう言ってエドラはラウリス先輩へ目を向ける。

 わたしも先輩へ顔を向けると、彼は肩を竦めるだけだった。


 詳しい業務内容は知らないはずだけど、わたしがヴィクトル様とお仕事している事を外部の人間に漏らすなんてありえない。


「そんな事はどうでもいいの。いま大事なのは、お姉様はヴィクトル様に不釣り合いだっていう事よ」

「あなたなら相応しいと?」

「当たり前でしょう。こんなに可憐な私を選ばないわけないもの。だから、ね? お姉様には私の恋を応援してほしいの。だって私達は家族だし、私は可愛い妹でしょ?」


 机に頬杖をついたエドラが微笑みながら言葉を紡ぐ。

 先程までの不安めいた様子はなく、涙だっていつの間にか止まっていた。ううん、元々あの一筋しか流れていなかった。

 エドラは泣く時までも綺麗なのだ。


「あー……アンジェリカ、エドラ嬢の言う通りだと思うぜ?」


 掛けられた声にそちらを向くと、ラウリス先輩は短く整えられた黒髪をがしがしと乱していた。

 眉は下がり、緑色の瞳は心配そうに翳りながらわたしの事を見つめている。


「エーヴァント秘書官は雲の上の存在だろ。公爵家の次男であの美貌、仕事も出来るし所長である第二王子からの信も篤い。俺達みたいな研究員に手の届く人じゃないんだって。玉の輿ではあるけど、ただの研究員じゃちょっと難しいんじゃねぇかな」

「わたしは……」


 そんなつもりじゃない。

 なんて、それは口に出来なかった。


 恋心を持ってしまっているから。ずっと一緒に居られないのは分かっているけれど、でもラウリス先輩の言葉をすぐに否定できないのは、わたしが……本心ではそんな浅ましい願いを持ってしまっているのかもしれない。


「優しくされてその気になっちゃったのね。可哀想なお姉様」


 くすくすとエドラが笑う。その笑い声には嘲るような響きが見え隠れして、何だかひどく恥ずかしい気持ちになってしまう。顔に熱が集まるのが分かった。


「ねぇお姉様。ヴィクトル様を紹介してくれたら、隣国で結婚しなくていいように、私がお父様にお願いしてあげる。悪い話じゃないでしょ?」


 そうだ、わたしは結婚して隣国に行くとエドラは思っているのだ。

 わたしがこの国を離れるのは難しいと知らないから。


「ラウリスさんと結婚したらいいわ。同じ研究員同士、趣味も合うでしょ」

「そう、俺にしておけよ」


 驚きに息を飲む。

 二人して名案だとばかりに笑っているけれど、そこにわたしの意思はない。


「結婚して、一緒に働こうな。俺の研究にはアンジェリカが必要だし」

「ふふ、きっと仲の良い夫婦になるわ。お姉様も研究を続けられるし、最高じゃない」


 わたしが隣国に嫁ぐのは止めて貰える。

 でも、この国で結婚をするなら……それは、きっとスティーグ殿下にも止める事が出来ない。国を離れる事がないのだから。


 でも、それに頷きたくなかった。

 もうわたしの意思を無視されるのなんて、ごめんだ。

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