10.また食べたいって、そう思う
一口食べたアップルパイの美味しさに目を丸くしてしまった。
食感が残る程に煮てあるリンゴはとても甘い。サクサクとしたパイ生地にカスタードクリームが絡まってとても美味しい。シナモンの香りが口の中いっぱいに残っている。
こんなに美味しいアップルパイは初めてだった。
フォークを置き、カップを口に寄せる。ミルクのたっぷり入ったコーヒーは飲みやすい温度になっていた。ミルクのおかげで苦味がなくて、これも美味しい。
「口に合ったかな?」
ふぅと息をつき、カップから顔を上げると向かいに座るヴィクトル様が、笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「……とても。美味しいです」
「それなら良かった。好きなお菓子はある? 何でも作るけれど」
「好きな、お菓子……」
問われたままに、知っているお菓子を思い浮かべる。
クッキー、ケーキ、キャンディ、タルト。どれも美味しい。だけど好きなものかと言われると、少し違う気がする。
嫌いなわけじゃない。食べられないわけでもない。
好きなものって、なんだろう。
「すみません、よく……分からなくて」
わたしの好きなものを作ろうとしてくれているのは、ヴィクトル様の優しさだろう。
それに応えられない自分が情けないし、恥ずかしく思う。
持ち手を掴んだままのカップに目を落とす。
ふわりふわりと飛んでいた白蝶がテーブルで一度羽を休めてから、また風に乗ってどこかに行ってしまった。
「そうか。じゃあこれから見つけていこう」
耳に届く声は、いつもと変わらない穏やかな響きを持っていた。
穏やかで、優しい声。滑らかな低い声に、嫌悪の色はない。
カップに落としていた視線をヴィクトル様に向けると、テーブルに肘をついて、そこに頭を乗せている。優しい顔をしていた。
「俺の好きな食べ物はローストビーフ。酒なら赤ワインがいい。お菓子は食べるよりも作る方が楽しいけど、食べるならアップルパイが好き。料理をするのが好きで、掃除も好き。庭の管理はあんまり好きじゃないし花もよく分からないから、そこは庭師に通って貰ってる」
紡がれていく言葉達に目を瞬いた。
ヴィクトル様は好きなものをしっかりわかっているんだ。それが羨ましい。好きなものが分からないわたしは、ひどくつまらない人間に思えるから。
「好きなものや苦手なもの。俺も一つずつ見つけていったんだ。君は今までそういう機会がなかっただけで、これからはゆっくり探せばいい」
「……見つかるでしょうか」
「見つかるさ。好きか嫌いか分からなかったら保留しておけばいい。そのうち、好きなものだけ選べるようになる」
「選ぶ……」
選ぶなんてした事がなかった。
いつだってわたしは、与えられるばかりだったから。
食卓を彩る食事も、ドレスや靴も、進路さえもわたしは選ぶ事が出来なかった。
魔力があったから魔法学院に入った。成績を残せたから魔法研究所に入った。
それは自分で選べたようで、それ以外に選択肢がなかったから。選ぶことなんて今までしてきた事がなかった。
好きなものが分からないのは、選ぶ事をしてこなかったからかもしれない。
選ばせてもらえなかった。でも……それがただの言い訳だというのも分かっている。わたしは自分から進んで、選ぶという事をしてこなかったのだ。
「好きなものってどんな気持ちになるんですか?」
大きな口でアップルパイを食べているヴィクトル様は、わたしの問いに目を瞬いた。
ごくんと飲み込んだのか、喉仏が大きく動く。
それを見ていたら、わたしもアップルパイが食べたくなってフォークを持った。
「俺の場合は、だけど。好きなものを食べたら嬉しいし、好きな事をしていたら楽しい。好きなものが分からなくても、嬉しいとか楽しいとかは分かるんじゃないか? 美味いとか、気分が良くなるとか、そういう明るい気持ちが好きに繋がるんだと思ってる」
確かにそうかもしれない。
これが好きだと判断するのは難しいけれど、楽しいとか嬉しいはわたしが感じるものだから。
それに頷きながら、一口大のアップルパイを口に入れた。
ほどよい甘さに煮られたりんごがとても美味しい。
「……このアップルパイ、とても美味しいです。また、食べたいくらいに」
思うままに言葉を紡ぐと、ヴィクトル様が嬉しそうに笑った。いつもより少し幼く見える笑みだった。
つられるように頬が緩むのを自覚して、なんだかそれが恥ずかしいから、コーヒーカップで口元を隠した。このミルクの入ったコーヒーも、自分の気に入っているものなのかもしれない。
「また作るよ。アンジェリカが食べたいと思ってくれるものは、何でも作る」
「それはちょっと贅沢ですよね」
「食べたいと思うのは、好きだからかもしれないだろ。それに、作り手としては食べたいって思ってくれるものを作りたいしね」
「ヴィクトル様の作ってくれるものは、どれも美味しくてまた食べたいと思いますよ」
「嬉しいけど。その中から特別なものを探してもらうか」
ヴィクトル様の作る料理はどれも美味しい。
その中から特別を選ぶのは、やっぱりちょっと贅沢だ。
でもきっと……わたしはヴィクトル様の作るものの中から、好きなものを見つけるんだろうな。
そんな予感がした。
空になったコーヒーカップをソーサーに戻すと、ポットを持ったヴィクトル様がお代わりを注いでくれる。先程みたいに、またミルクも同じだけ。
東屋を抜ける春風が、わたしとヴィクトル様の髪を揺らしていった。
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