15.大事に思っているのだと(ヴィクトル)

 夜が深まり、空には月が煌々と輝いている。

 日中はそれなりに暖かったが、陽も沈んだ今ではすっかりと清夜だった。上弦の月に薄い雲がかかっては、風に流されていく。

 いい夜だった。


 王城の廊下を歩くヴィクトルは、そんな夜にも関わらず眉間に深い皺を寄せていた。

 いつもより歩調も早くて荒い。すれ違った文官が引き攣った声を押し殺すくらい、その雰囲気は怒りに満ちていた。


 やってきた目的地で、大きな扉をノックする。

 返事が聞こえると同時に入室すると、室内で机に向かっていたスティーグ第二王子が顔を上げた。


「なんだ、ひどい顔をしているな」

「そうでしょうか」

「美人が凄むと恐ろしいな。それを見れば王都中の魑魅魍魎が泣いて逃げていくだろうよ」

「その言葉が本当なら、王都中を駆けまわってくるのもやぶさかではないですよ」


 感情を顔に出さないスティーグ王子が喉の奥で低く笑う。珍しいその光景にヴィクトルは肩を竦めた。


 スティーグ王子は席を立ち、執務机から少し離れた応接セットへ足を進める。スティーグ王子がソファーに座ったのを見て、向かい合うソファーにヴィクトルも腰を下ろした。


 手にしていた書類をテーブルの上に置くと、スティーグ王子はそれを手に取って読み始める。それをぼんやり見つめながら、ヴィクトルは心に渦巻く苛立ちを溜息に逃がした。


 昨日の夜、アンジェリカは夕食をとらなかった。

 食欲がないと部屋に引きこもり、今朝になって部屋から出て来た彼女はひどく疲れた顔をしていた。怪我をした様子はないが、それも治癒魔法を使ってしまえば分からない。


 だがヴィクトルはアンジェリカに何があったのかを知っていた。

 そしてきっと、アンジェリカが泣いていたのだろうとも思っている。


 アンジェリカは昨日、外出をしていた。護衛についていた女性騎士から、昨日の詳細は報告を受けている。

 アンジェリカが妹に会ってしまったこと。妹に蔑まれ、見下されていたこと。金を稼ぐ道具にしか見られていなかったこと。


 彼女はいつもあんな扱いをされていたのだろうか。

 よく考えれば、彼女の荷物があまりにも少ないと違和感があった時に調べておくべきだったのだ。

 そうすれば、伯爵家からの手紙を彼女に渡す事もなかった。だがそれが、ヴィクトルの勝手なエゴだという事も理解している。


 アンジェリカの意思も確認せず、勝手にそんな事をするわけにはいかない。

 そして彼女は……それを望まない。


「……おい、大丈夫か?」


 掛けられた声に、思わず肩を跳ねさせてしまった。

 瞬きを繰り返してスティーグ王子を見れば、不思議なものを見るような視線をヴィクトルに向けている。


「すみません、考え事をしていました」

「楽しい考え事ではなさそうだな。だがまずは……こちらの報告書についてだな」


 ヴィクトルがスティーグ王子に渡したのは、アンジェリカの任務報告書だ。手記で解読された分をヴィクトルが校正したものになる。

 任務の進捗具合を定期的に報告しているのだが、今日は別の思惑もあった。しかしそれは後にして、まずは仕事だ。


「解読は順調に進んでいます。いまは魔法式の解析に入っていますが、少し手こずっているようです」

「魔法式も古代文字なんだろう?」

「そうです。それに加えて構築式自体も今のものとは全く異なるらしく、それを理解するところからやらなければならないとアンジェリカは言っていました」

「そうか。どちらにせよ彼女以外では勤まらない件だ。時間がかかっても構わん」

「ありがとうございます」


 アンジェリカは優秀だった。

 古代文字の権威であるキュラス教授が推薦するだけはある。それに加えて、真面目で勤勉。この件はアンジェリカ以外に成しえる事は出来ないだろう。

 それはヴィクトルだけでなく、スティーグ王子も思っている事だった。


「教皇も泣いて喜んでいたぞ。まさか女神の手記を読む事が出来るとは、とな」

「精霊王が誕生した暁には、手記の存在も公表されるのですか?」

「さぁな。精霊王が誕生すれば女神も降臨するのだろう。そんな時に悲哀に満ちた手記を公表するのもな……各国の女神光教には写しを渡す事になるだろうが」

「教皇と陛下の心次第ってところですかね」

「そうなるな」


 どちらにせよ、アンジェリカの功績は認められるだろう。

 そうすれば彼女を嘲る者はいなくなる。そうであってほしいと思う。


 報告書をテーブルに置いたスティーグ王子は、ソファーの背凭れに体を預けた。

 足を組み、膝の上に両手を重ねたその姿勢はスティーグ王子が寛いでいる時に見られるものだ。これから先は、仕事外の話という事だろう。


「それで? お前のその顔はアンジェリカ嬢に関するものか」

「もうご存知なのでしょう」

「私を威嚇しなくてもいいだろう。お前の望んでいるものがここにあるのだから」


 そう言うとスティーグ王子はジャケットの内ポケットから三つ折りにされた紙を取り出し、ヴィクトルへと差し出した。

 それを受け取り開いたヴィクトルは目を通す。そしてその美貌を歪ませた。


 数枚が重ねられたそれは、アンジェリカの家庭環境を調べた報告書だった。報告自体は紙一枚で終わるものしかなく、それが一層、彼女が何もしてもらえなかったという事を表している。

 これはアンジェリカが伯爵家で虐げられていたという記録だ。衣食住に困る事はなかったようだが、それだけ。困らないが、楽しめるものが与えられていたわけではない。

 溺愛されている妹に比べて、ひどい仕打ちだと言って構わないだろう。


 日常的に食卓を囲む事もなく、外に連れ出す事も、家族の会話もなかった。

 家庭教師はいたが、仕事以上に心を通わせる事が出来るはずもなく。むしろ家庭教師は冷遇されているアンジェリカに対し、必要最低限の関わりしか持とうとしなかったらしい。


 デビュタントも思い出に残る素晴らしいものではなく。

 魔法学院に入学したら寮から帰る事を許さず。卒業式には誰も来なかった。


 魔導研究所に勤めてからも、アンジェリカは伯爵家に帰っていない。

 しかしアンジェリカが貰う給料のほどんどは、伯爵家へと送金するよう手続きがされている。それ以外にも伯爵家に臨時の送金をする事があり、そういう時はアンジェリカの元に伯爵家から手紙が届いた後。手紙は……金の無心だろう。


 伯爵家の誰もがアンジェリカを気に掛ける事ないのに、彼女の金を貪っている。

 父である伯爵は趣味で骨董品を集めているが、その金はどこから出ているのか。

 母である夫人も高価なアクセサリーを買い集め、社交に勤しんでいる。

 妹は華やかな装いで貴族学院の生活を楽しんでいる。友人も多く、社交界では妖精のようだと言われているらしい。


 彼らの生活を支えているのは間違いなくアンジェリカだろう。

 それなのに誰もアンジェリカを大事にしない。


 報告書を持つ手に力が入り、紙に皺が入る。それに気付いたヴィクトルは長くて深い溜息を零した。


「……アンジェリカは自己肯定感が低すぎます。それはこの家庭環境のせいでしょう」

「そうだな。出来る事なら彼女を伯爵家から切り離した方がいいだろう。だがきっとアンジェリカ嬢はそれに頷けない」

「ええ。アンジェリカは……家族を求めている」


 アンジェリカの過ごしてきた過去を思うと、胸が苦しくなる。これは同情かもしれない。だがヴィクトルはアンジェリカを大事にしたいと思うようになっていた。

 自分でもそんな気持ちに戸惑うが、今朝のアンジェリカを見たら自分の戸惑いなんてどうでもよかった。


「彼女が任務を終わらせた時には、伯爵家をどうにかしないといけないだろう。まずはアンジェリカ嬢が心穏やかに解読に取り組めるようにしなければな。頼むぞ、ヴィクトル」

「お任せください」


 アンジェリカの過去に関する報告書を折り畳み、ヴィクトルは力強く頷いた。

 家族には恵まれなかったが、彼女を大切に思う者はいる。アンジェリカの友人も、学院時代の恩師も、そして自分も。それをアンジェリカに伝えたいと思った。


 彼女がそれを受け入れられるまで、何度でも、根気よく。

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