16.笑っていてほしい

 妹と会ってから二日が経った。

 その日の夜は部屋に引きこもってしまって、昨日は集中を欠いてしまった。

 いつもより古代文字が頭の中に入ってこない。文字は認識出来ているのに、その文字と意味が繋がらない。


 気持ちの揺らぎが仕事に影響してしまうなんて。そんな自分が情けなかった。

 今日はだいぶ調子が戻ってきたと思う。昨日の分も頑張らないといけない。そんな気持ちで古文書から魔法式を描き写していた時だった。


「アンジェリカ、君の話を聞いてもいいか」


 ヴィクトル様の声に顔を上げる。わたしの向かいの机で仕事をしていたヴィクトル様は、その手を止めてわたしを見つめている。その表情は真剣で、一昨日の件で伯爵家の事情が知られてしまったと分かってしまった。


「はい、なんでしょう」


 わたしも持っていたペンを置いた。まっすぐに視線を返しながら。


「ブランシュ伯爵家は……君に何をしてきたんだ?」

「……もう調べているのではないですか?」


 わたしの言葉にヴィクトル様は瞬きを繰り返した。長い睫毛が頬に影を作るのが綺麗だと思った。

 責めているわけではないのだけど、ヴィクトル様は申し訳なさそうに眉を下げ「すまない」と口にする。だからわたしは笑って見せた。


「隠しているわけではないですし、お気になさらず。少し……恥ずかしい話ですが」


 今更取り繕っても仕方がない。そう思いながらわたしはゆっくりと息を吐き出した。

 どこまで知られているのだろう。調べたのは公爵家なのか、それとも王家なのか。


「一昨日の件もご存知なのですよね? わたしが妹と会った事です」

「ああ。騎士から報告を受けている」

「妹と会うのはいつぶりだったか……わたしは家に帰りませんが、ああやって時々会ってしまうのです。研究所に来た事もありますが、いつもあんな感じでした」


 妹と、両親と会うと嬉しい気持ちがある。妹が生まれた時に幸せだと思った気持ちは今でも思い出せる。

 もしかしたら今回は優しい言葉を掛けて貰えるかもしれない。そんな風にも期待してしまう。それが叶う事はないし、期待するだけ自分が惨めになってしまうのだけど。


「実家がわたしにしてきた事でしたね。……大衆小説であるような、虐げられる事はありませんでした。例えば食事を抜かれたりだとか、狭くて汚い部屋に押し込まれるとか、暴力をふるわれるとか。そういった事は一切ありません」


 わたしの言葉にヴィクトル様は小さく頷いてくれる。

 きっとそれは調査結果と相違なかったのだろう。それに少しほっとした。


「きっとヴィクトル様が知った事と、わたしの話す事に違いはないと思います。ヴィクトル様は……本当は何を知りたいのですか?」


 過去の事をわたしの口から聞きたいとか、そういう事ではないと思った。

 それならわたしは何を話せばいいのだろう。


 そう思って問いかけると、ヴィクトル様の眉がまた下がったような気がする。どうしてヴィクトル様がそんなに辛そうな顔をするのか、わたしにはよくわからなかった。


「……伯爵家にいる時、君はどんな気持ちだった?」

「そうですね……寂しかったと思います。わたしは両親と妹と同じ枠の中に入りたかっただけなのです。一般的な親子のように、姉妹のように過ごしたかった。でもわたしは弾かれてしまった」

「食事も一人でとっていたんだな?」

「はい。それもわたしが意地を張ってしまっただけなのです。部屋で食べると言えば、気にかけてくれると思ってしまって。幼稚な考えで恥ずかしいのですが……」

「だが、それは叶わなかった」


 過去の話だと割り切れない。

 いまでもわたしは、家族の食卓を夢見ているから。それに縋って苦しい思いをしているのはわたしなのに、ヴィクトル様の方が辛そうだった。


 この人はやっぱり優しい人なのだ。

 他人の苦しみに寄り添ってくれる。でもわたしは、ヴィクトル様には笑っていてほしいと思う。


「……君はそれでも、伯爵家に金を送るのか。君の望みを叶えてくれない家に」

「でもそれをやめると、わたしと伯爵家の繋がりが無くなってしまうのです。情けない事だとは理解しています。でも……どうかお願いですから、この件については放っておいてくれませんか」


 わたしの言葉に目を瞠ったヴィクトル様は、何か言葉を探すように口を開いては閉じる事を繰り返す。

 だからわたしは笑って見せた。


「ヴィクトル様がそんな顔をする事はないんですよ。これはただのわたしの我儘にようなものですし……いつかはきっと、割り切れるんだと思います」


 それがいつになるか、自分でも分からない。

 でも今のこの状況を変えるなんて出来そうにない。


 変化するのは恐ろしい。

 現状を維持する方が、気持ちが楽だ。先延ばしにしているだけだというのは分かっている。でも向き合う事はひどくこわい。


「……そうか」

「はい。でも本当に不自由なく暮らせていたから、心配しないでくださいね。執事や侍女長達が色々配慮してくれていましたから」


 あえて明るい口調で言葉を紡げば、先程までの重苦しい雰囲気が薄れていく。それに胸を撫で下ろしていると、ヴィクトル様の表情も少し和らいだように見える。


 やっぱりヴィクトル様は笑っている方がいい。

 穏やかで、優しい笑みがよく似合う。


「しかし夜会などはどうしてたんだ? 君のところは兄弟もいないし、父親がエスコートするものだろ。だが伯爵がそれをするとも思えないんだが」

「夜会は行った事がないんです。伯爵家に居る時から友人は居なかったので、誘ってくれるような人もなく。魔法学院では皆が研究や研鑽に忙しくてそんな雰囲気でもなかったですしね」

「…………」


 ヴィクトル様は信じられないような目をしてわたしを見ている。

 それが何だか可笑しくて、わたしは肩を竦めて見せた。


「可哀想な目で見られるのは困ります」

「いや、そんなつもりじゃ……悪い」

「本気の謝罪も居た堪れなくなるじゃないですか」


 冗談めかして笑って見せれば、ヴィクトル様も困ったように笑った。


「それに今はちゃんと友人がいますから、大丈夫です」

「アーネル事務官か」

「はい。大切で……大好きなわたしの友人です」


 わたしの言葉にヴィクトル様はほっと表情を和らげた。先程までは体に力が入っていたのか、今はリラックスしたように机に頬杖をついている。


「好きって、分かったんだな」

「まだ一つ目なんですが。あ、でも……もう一つ」

「もう一つ?」

「ヴィクトル様の作って下さるアップルパイも好きです」

「え?」


 予想外だったのか、驚きにヴィクトル様が机についていた肘を崩してしまう。すぐに体制を立て直すけれど、動揺している姿が珍しくて笑みが漏れた。


「……毎日作るぞ、そんな事言ったら」

「ご褒美ですか?」

「まぁ毎日頑張ってるアンジェリカにはご褒美が必要ではあるよな」


 ヴィクトル様は機嫌よく「そうか、アップルパイか」なんて繰り返している。

 わたしは口元が綻ぶ事を自覚しながら、また古文書を開いた。先程までの鬱々とした気持ちが無くなって、集中力も戻ってきたようだ。



 その日の夜、ヴィクトル様は早速アップルパイを焼いて下さった。

 サクサクのパイに甘いリンゴ。滑らかなカスタードクリーム。うん、やっぱり好きだな、と思った。

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