25.変身

 シィラとお茶を楽しんだ翌日のこと。

 今日もお休みを貰っているわたしは、自室で本を読んでいた。気になる本はどんどん増えていく一方で、今日中には読みたいと思う本がテーブルの上に積み上がっている。

 本を積むのも、それを一冊ずつ崩していくのも楽しいのだ。


 幸せな時間を過ごしていると、控えめなノックの音が響いた。

 訪ねてくる人なんてヴィクトル様しかいない。時計を見るともう少しで夕方になるから、夕食作りのお手伝いに誘ってくれるのだろうか。

 そんな事を思いながらドアを開けると、廊下に立っていたのはやっぱりヴィクトル様だった。


「少しいいか?」

「はい、どうぞ」


 お手伝いのお誘いではないようだ。

 部屋に通してソファーを勧めて座って貰う。わたしは向かい合う一人掛けの椅子に……と思ったのだけど、テーブルに積み上がる本に気付いて少し恥ずかしくなってしまう。

 本をまとめて抱え、書き物机に移動させてから椅子に座った。


「読書の邪魔をしてしまったな」

「大丈夫です。そろそろ休憩しようと思ってましたから」

「ありがとう」


 ふっと笑ったヴィクトル様の笑みに、また胸がおかしくなる。ちりちりするような違和感だけじゃなくて、鼓動がおかしくなる感覚。

 ヴィクトル様の笑みが研究所で見ていた時と違うような気がするから、そう思うのかもしれない。違うかどうかも、はっきりしないのだけど。


「アンジェリカは夏の夜会は知ってる?」

「夏の夜会……あの、王城で開かれている夜会ですよね? 貴族の中でも若い人達が対象とされているような……」

「そう。今年もそれが開かれるんだけど、俺と一緒に参加しないか?」

「えっ、無理です!」


 予想外のお誘いに、反射的に返事をしてしまう。強い拒絶にも関わらず、ヴィクトル様は可笑しそうに笑っている。気を悪くしていない様子にほっとしつつ、今のお誘いをもう一度考えてみた。


 夜会に出た事もないのに、ヴィクトル様と一緒に?

 無理だ。無理。緊張で生きた心地がしないのが簡単に想像つくし、ヴィクトル様の隣に並ぶのも烏滸がましい。


「断るのが早すぎるな」

「今もまた考えたんですけど、やっぱり無理です……」

「何が無理だと思う?」

「夜会に出た事もないですから、立ち振る舞いも分かりませんし……」

「うん」

「ドレスなども用意してないですし……」

「うん」

「わたしがヴィクトル様の隣に並ぶのも無理と言いますか……」

「じゃあ一つずつ解消していくか」


 参加出来ない理由に、優しく相槌を打ってくれていたのに。ヴィクトル様も引いてはくれないみたいだ。

 この時点でもう気持ちは負けそうなのだけど。


「まず立ち振る舞いか。ダンスの経験は?」

「学院の寮に入る前に、執事が教えてくれました。それ以来踊っていませんから、もう踊れないと思います」

「よし、じゃあダンスは練習しよう。夜会っていってもこれは堅苦しいものじゃない。最初の挨拶が終わればダンスをして終わり。お喋りも適当に済ませて、美味いものでも食べてこよう」


 あっさりと一つ目の理由を取り除かれてしまう。実際はそんなに簡単にいかないはずなのに、ヴィクトル様が言うからには大丈夫なのだろうと思ってしまうから不思議だ。


「ドレスとアクセサリーは出来てる。前にレダとデザインを決めただろう?」

「もう出来上がったんですか?」

「優先してくれるよう頼んだからね。アクセサリーはオーダーじゃないけど、似合うものを選んであるから心配しないでくれ」


 わたしのお給料で支払えるだろうか。

 そんな事を考えているとヴィクトル様がにっこりと笑う。顔に出ていただろうかと平常心を意識するけれど出来ているか不安だ。


「俺からのプレゼントだから気にしないで受け取るように」


 顔に出ていたのか、考えを読まれたのか。

 どちらにせよヴィクトル様に隠し事がは出来ないみたいで溜息が漏れた。


「それと隣に並ぶのが無理、だったか」

「ヴィクトル様はご自身のお顔を分かってらっしゃいますよね?」

「毎日鏡で見ているからな。整っているのは否定しない。だがそれが、隣に立てない理由にならないだろ」

「なります」

「アンジェリカの自己評価を上げるにはどうしようかな」


 困ったように言うけれど、その表情は楽しそうだ。たぶんわたしの方が困った顔をしているに違いない。

 ヴィクトル様は自分の隣に置いていた大きなポーチを持ち上げて、洗面所を指差した。


「鏡の前に行っても?」

「はい……それは構いませんけど」


 見られて困るものもない。

 不思議に思いながら洗面所へと案内をする。中に入ったヴィクトル様は鏡の前にある椅子を引いてくれるから、促されるままにそこに座った。

 鏡の中には、不思議そうな顔をしているわたしが映っている。


「君に化粧をしてもいいか。あと、髪も結いたい」

「……ヴィクトル様が?」

「そう。本職のようにはいかないけど……まぁやり方は習ってきた。俺は器用だしいけると思う」


 習ってきたというのは、わたしの為に……なのだろうか。そうだと思うし、そこまでしてくれたヴィクトル様の気持ちを無碍にはしたくない。

 それに、わたしもヴィクトル様にお任せしたいという気持ちがあった。


「お願いします」

「じゃあ、少し触れるぞ」


 そうお願いするとほっとしたようにヴィクトル様が笑う。わたしも笑みを浮かべながら、髪を結んでいたリボンを解いた。

 肩に落ちる薄茶の髪。胸下ほどまで伸びた髪に癖はなく、ここでの生活のおかげで艶が出ているけれど、珍しい色でも華やかなものでもなかった。


 ヴィクトル様はポーチからブラシを取り出すと、薄茶の髪を丁寧に梳いてくれる。痛くならないように気遣ってくれるのが分かるほど、優しい手つきが気持ち良かった。


「君が選んだドレスは首元もレースで覆われていたから、髪は全部結い上げてしまってすっきりさせよう。華やかになるような髪型も教えて貰ったんだ」

「わたしはそういう事に疎いのでお任せしたいんですが……似合うと思いますか?」


 髪を結い上げた事はない。デビュタントの時も高い場所で一つに纏めていたけれど、華やかな髪型ではなかったのだ。

 ヴィクトル様が選ぶのだから、素敵な髪型なのは間違いない。でもそれが似合うかどうかは分からない。

 不安に思いながら問いかけると、鏡越しのヴィクトル様が目を瞬く。それから、いつものような笑みではなく……口端を上げるような自信に満ちたような笑みを浮かべた。


「似合うよ」


 その一言で充分だった。

 ヴィクトル様がそう言うのだもの。間違いなくわたしに似合うのだ。


 そう思いながら自分の髪が結い上げられていく様を見つめていた。わたしでは理解の出来ないような複雑な髪型はとても華やかで可愛らしい。うなじが露わになって少し恥ずかしいけれど、それよりも可愛いという気持ちの方が強かった。


 それよりも……化粧だ。

 ヴィクトル様の持つ筆がわたしの顔を滑っていく。筆や指先が肌に触れると、ドキドキしてしまって落ち着かない。顔が赤くなっている事にヴィクトル様は触れなかったけれど、緊張しているのはバレてしまっていただろう。


「うん、綺麗だ」


 紅筆を置いたヴィクトル様が満足そうに笑う。

 わたしは言葉を返す事も出来ず、ただ茫然と鏡の中の自分を見つめていた。


 こんな自分、見たことがなかった。

 長く伸ばされた睫毛に縁取られたピンクの瞳は、きらきらと輝いている。色付く目元も紅潮する頬も、艶めく唇も、初めて見る。


「これなら俺と夜会に行ってくれる?」


 身を屈めたヴィクトル様の顔が、わたしの顔の隣に並ぶ。

 どこまでも優しい青い瞳に見つめられ、わたしは小さく頷く以外に出来なかった。

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