28.兄と弟
「ヴィクトル」
壁際で軽食を楽しむわたし達の元に近付いてきたのは、ヴィクトル様に雰囲気の似た銀髪の男性だった。ちらりとヴィクトル様の様子を窺うと、少し緊張しているかのように唇を引き結んでいた。
ヴィクトル様はわたしと自分のお皿を給仕に渡してから、男性へと向き直る。
「……兄上、お久し振りです」
「ああ、元気そうで何よりだ。たまには帰ってきたらどうだ」
「仕事が忙しいもので」
「スティーグ殿下から聞いているよ。よく頑張っているとね」
労う声は優しくて、思いやりに溢れているようだった。
ヴィクトル様は軽く頭を下げた後に、わたしの腰に手を回した。
「兄上、こちらはアンジェリカ・ブランシュ伯爵令嬢です。魔導研究所で研究員をしています」
「はじめまして、アンジェリカ・ブランシュと申します」
ドレスを摘み頭を下げる。
こういった場での振る舞いも、ヴィクトル様と確認しておいてよかったと心から安堵した。
緊張しているわたしに向かって、ヴィクトル様のお兄様はにっこりと微笑んでくれる。
ヴィクトル様とよく似ていると思った。お兄様の方が線が細いけれど、優しそうな雰囲気はそっくりだ。
「私はオスヴァルト・エーヴァント。オスヴァルトと呼んでくれて構わない。弟と仲良くしてくれているようだから」
「ヴィクトル様にはお世話になっております」
「良かったら今度、ヴィクトルと一緒に遊びにおいで」
「兄上、アンジェリカを困らせないで下さい」
「お前が令嬢をエスコートしてくるなんて初めてだろう。私も浮かれてしまうんだよ」
お誘いは有難いのだけど……たぶん、いや、間違いなく。オスヴァルト様はわたしとヴィクトル様の関係を勘違いしている。
上司と部下の関係でしかないから、そう説明すればいいんだけど……。それはヴィクトル様にお願いするとして、わたしは曖昧に微笑んでおいた。
「そのうち帰りますから、とりあえず今日はここまでにして下さい」
「分かったよ。ではアンジェリカ嬢、良い夜を」
機嫌よさげなオスヴァルト様が立ち去ると、ヴィクトル様がふぅと深い溜息をついた。そんな様子が珍しくて様子を窺うと困ったように笑っているのが見えた。
「兄が悪かったな」
「いえ、わたしは気にしていませんから」
「ありがとう」
「……緊張していました? ヴィクトル様はお兄様の事が、好きなのかと思ってました。」
わたしの言葉にヴィクトル様が目を瞬いた。眉を下げて笑う様子は困ったように見える。
ヴィクトル様が大広間へと視線を向ける。その視線を追いかけると、談笑しているオスヴァルト様が見えた。
「兄が優秀だっていうのは、前にもちらっと話したと思うんだけど。何でも出来るのにそれをひけらかす事もしないで、不出来な俺にも優しい人なんだ。俺が一人暮らし出来ているのも公爵を継いだ兄のおかげだしね。だから……ちょっと、好きなんだけど……兄の前に出るとどうしていいか分からなくなるんだ」
そう呟くヴィクトル様はどこか寂しそうで、見上げた青い瞳は少し翳っている。
わたしはヴィクトル様の腕に手を掛けて、首を横に振った。
「お二人の関係性は分からないですし、深入りもしませんが。……ヴィクトル様が不出来だというのは、否定させて下さい」
「アンジェリカ……」
「だってヴィクトル様は一人で何でも出来るじゃないですか。わたしの自信も取り戻させてくれたし、好きなものも見つけてくれた。好きなもので身を包んだわたしを夜会にも連れてきてくれた。何より……わたしの心を守ってくれた。わたしにとってヴィクトル様は恩人なんです」
それは間違いなくわたしの本心だった。
オスヴァルト様が優秀なのも、何でも出来るのも、わたしには分からない。わたしにとってはヴィクトル様が何でも出来る素敵な人。
「……ありがとう、アンジェリカ」
「お礼を言うのはわたしの方ですよ」
「いや、受け取って欲しい。……アンジェリカにそう言って貰える俺を、自分でも誇らないといけないな」
そう言って笑うヴィクトル様の瞳に、もう翳りはなかった。
わたしを甘やかす時の、優しい笑みを浮かべていた。
その笑みを見ていたら、何だか鼓動がおかしくなってしまう。心の内を曝け出して緊張してしまったのかもしれない。
こっそりと深呼吸をしていたら、楽団が一際大きく演奏を始めた。
「ダンスの時間だ。踊れそう?」
「はい。……靴の爪先は補強してきましたか?」
「最近は足を踏む事だってなくなっただろ」
「こんなに沢山の人に囲まれて踊るのは初めてですから」
「心配しなくて大丈夫。踏まれたっていいよ」
顔を見合わせて笑ってしまう。
踏んでしまうかもしれないけれど、きっとヴィクトル様はそれも笑ってくれる。練習の時もそうだったのだ。
転びそうになってもきっと支えてくれるし、大丈夫。だからあとは……楽しむだけ。
そう思いながら大広間の中央に向かう人の波に紛れる。
腰に回る手にどこか安心感さえ覚えつつ、ヴィクトル様の肩に手を置いた。握られた手がヴィクトル様の温度と混ざっていく。
軽やかな音楽が奏でられ、わたしはヴィクトル様と一歩を踏み出した。
二曲続けて踊ったからか、少し息が上がってしまった。
興奮からかふわふわしているのが分かる。そんなわたしを見て低く笑ったヴィクトル様はダンスの輪から外れて壁際にあるソファーの方へと案内してくれる。
「楽しかったか?」
「とっても。ヴィクトル様の靴も無事ですんで良かったです」
「いつ踏まれるのかって楽しみにしてたんだけどな」
「踏まなかった事を褒めて欲しいんですけど」
「ふは、それもそうか」
ソファーに座ると、給仕からグラスを受け取ったヴィクトル様がひとつをわたしに差しだしてくれる。淡いピンクの液体で満たされた小さなグラスの縁にはイチゴが飾られていた。
飲んでみるとイチゴのワインのようだった。甘くて飲みやすい。美味しい。
ソファーの前に立つヴィクトル様とお喋りをしていると、参加していた研究所の職員達が代わる代わるやってくる。
皆がわたしの装いやダンスを褒めてくれるものだから、恥ずかしいのと誇らしいのとで気持ちがもっと浮ついてしまった。
視線を感じてそちらを見ると、離れた場所でこちらを見るラウリス先輩がいた。驚いたようにこちらを見ているけれど、わたしと目が合うと笑って手を振ってくれる。
わたしも手を振り返して、またワインを一口飲んだ。
「エーヴァント秘書官、少しよろしいでしょうか」
声を掛けてきたのは研究所の事務局長だ。
わたしがヴィクトル様の元で仕事をしていると知っている人でもある。
「ああ。アンジェリカ、ここから離れないように」
「分かりました」
近くには研究員達もいる。困る事はないだろうと思って頷くと、ヴィクトル様は事務局長と一緒に少し離れた場所で話し始めた。
一人になって、またワインを一口飲む。
もうこんな経験はないだろうけれど、素敵な思い出が出来たのは嬉しい。
ヴィクトル様は次の話もしてくださるけれど、でもそんな機会が訪れるよりも、わたしがお屋敷を出る方が先だろう。
魔法式の構築も順調で、きっと近い内に完成させる事が出来るから。
寂しい、なんて思ってはいけない。
胸の奥が痛んで、小さな溜息が漏れた。
その時──わたしの前に影が差した。
俯いていた顔を上げると、そこに立っていたのは──わたしの妹、エドラ・ブランシュだった。
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