27.夜会のはじまり

 公爵家の馬車で王城に向かい、人の少ない扉の方へと案内されて中に入る。

 デビュタントの時に来て以来だから、もう七年も前になる。その時の事はほとんど覚えていないから、初めて来ると言ってもいい。


 開場を待つ控え室で、わたしが緊張に身を強張らせていると、ヴィクトル様はくすくすと笑みを漏らした。


「そんなに緊張しなくていいのに」

「無理です……。胃がキリキリして……」

「スティーグ殿下に挨拶したら、美味しいものでも食べていこう」

「ダンスは……」


 ダンスも練習したのだ。

 ヴィクトル様の足を踏んでしまったのも最初だけで、中々上手に踊れるのではないかと自分でも思う。基礎を教えてくれていた執事のおかげだ。


「踊れる余裕があったらでいいよ。無理をしないで楽しんでいくのが大事でしょ」


 優しい言葉に、小さく頷く。

 確かに踊ろうとしたら、緊張に足がもつれてしまうかもしれない。でも……折角の機会を無駄にしていいのだろうかとも思う。


 素敵なドレスを着て、綺麗にお化粧をして貰って、もう自分じゃ出来ないような髪型にして貰って……ヴィクトル様と一緒に過ごす。


 そんな夜を、こんな緊張しただけで終わらせたくないと思った。

 そう思っていると、不意にヴィクトル様が手を握ってくれた。わたしのよりも大きくて、温かい、少し骨張った手。


 温もりが溶けてくると、落ち着いてくるから不思議だ。


「……大丈夫です。なんだか、楽しめそうって思えてきました」

「無理はしないでいいからな。でも楽しんでくれたら俺も嬉しい」


 顔を覗き込んでくるヴィクトル様の青い瞳がとても綺麗。また胸の奥で知らない感覚がする。チリチリするよりも強いような、不思議な感覚。心がぎゅっとなって、解けていくのは何だろう。


 その感覚の正体を掴む前に、控え室の扉が開いた。「お時間です」と告げる声に促され、わたし達は立ち上がる。


「では行こうか」

「はい、よろしくお願いします」


 差し出してくれた腕に手を添えて、身を寄せる。姿勢を真っ直ぐに、前を見て。

 ファンファーレが鳴り響き、大広間の扉が開かれた。



 大広間にはたくさんの人が集まっていた。美しい衣装の人達を見ていると心が躍るし、心地の良い騒めきが広がっている。一段高くなっている一角では楽団が音楽を奏でていた。


 人の波に紛れてしまうだろうと思っていたのに、注目を集めているのが分かる。

 ヴィクトル様が目立つ人だから、それも仕方がないとは分かっているけれど。落ち着いたはずの緊張感がまたわたしの手を震わせてしまう。


「アンジェリカ、大丈夫か?」

「……たぶん」

「いつも一人で参加している俺が、君と一緒だから目立ってしまったな」

「あの……わたしがヴィクトル様の隣に立って、ご迷惑ではないですか?」

「迷惑? とんでもない。こんなに綺麗なアンジェリカをエスコートさせて貰えて幸せだと思ってるくらいなのに」

「……お口が上手で、もっと緊張してしまいそうなんですが」


 わたしの言葉に少し笑ったヴィクトル様が悪戯に片目を閉じて見せる。

 美形のそんな仕草はずるい。


「じゃあ周囲の喧噪なんて気にしないで、俺だけ見てて。俺の事だけで緊張していて」


 滑らかな低い声に顔がに熱が集まっていく。耳もじんじんしているから、同じ色に染まってしまっているのだろう。


「はは、アンジェリカの赤い顔を見てたらアップルパイが食べたくなったな」


 予想外の言葉が何だかおかしくて、思わず笑ってしまった。

 つられるようにヴィクトル様も肩を揺らす。

 視線を重ねてくれるヴィクトル様を見ていたら、大丈夫な気がしてくるから不思議だ。


 落ち着いたからか、一つ気付いた事がある。

 ヴィクトル様はわたしと話す時、身を屈めてくれている。だからいつも視線が合うのだ。


 そんなところからもヴィクトル様の優しさが伝わってきて、ああだめだ……また胸の奥がおかしくなりそう。


「スティーグ殿下に挨拶に行こうか」

「はい」


 意識して深呼吸を繰り返す。そうすれば少しでも落ち着くって分かったから。

 周りの人がこちらを見ているけれど、大丈夫。ひそひそと話すその様子から、好意的なものじゃないのも伝わってくる。

 でもわたしは……ヴィクトル様の事だけで緊張していたらいい。それでいいのだ。



 スティーグ殿下の前で挨拶をすると、少し口端を上げられたように見える。職場ではなく夜会という席だから、雰囲気が柔らかいのだろうか。


「アンジェリカ嬢、元気そうで何よりだ」

「ありがとうございます」

「今日はいつもと雰囲気が違うな。ヴィクトルの趣味か」

「髪型は俺が決めましたが、ドレスはアンジェリカの選んだものですよ。よく似合っているでしょう?」


 わたしの隣で胸を張るヴィクトル様に少し恥ずかしくなってしまうけれど、スティーグ殿下は頷いて下さった。


「ああ、よく似合っている。しかし緊張しているようだな?」

「夜会に出るのは初めてなんです」

「そうか。これからは機会も増えるだろうが、ヴィクトルを頼れば問題ないだろう」

「お任せください」


 何でもない事のようにヴィクトル様が請け負うから、またこういう風に一緒に夜会に来られるのかと勘違いしてしまいそうになる。

 わたしは曖昧な笑みを浮かべるだけにして、ヴィクトル様と一緒にスティーグ殿下の前から下がらせて貰った。


 ダンスが始まるまではまだ時間がある。

 軽食を摘んでもいいそうだから、ヴィクトル様と一緒に壁際に誂えられたそのコーナーへと向かった。


 美しく飾られた食事が並んでいて、とても美味しそう。

 給仕に言って、いくつかの料理を取り分けて貰ったヴィクトル様は、そのお皿を渡してくれた。

 差し出されたフォークも受け取って、壁際に寄っていただく事にする。


「とっても綺麗です」

「そうだな」


 わたしは梨に生ハムが巻かれたサラダから食べる事にした。甘い梨と塩気の強い生ハムが合っていて美味しい。ピリリと刺激があるのは黒コショウのようだ。


「美味しい」

「これも美味い。牛肉のリエットだな」

「お料理もきらきらしているように見えますね。でも……」


 これを言ってもいいのだろうか。不敬になる?

 そう思って口籠ってしまったわたしの口元に耳を寄せるよう、ヴィクトル様が身を屈めてくれる。


「どうした?」


 甘やかすような優しい声には、素直になってしまうのだから不思議だ。


「……ヴィクトル様のご飯の方が美味しくて好きです」


 内緒話をするように囁くと、驚いたようにヴィクトル様が姿勢を正す。

 その頬はうっすらと朱に染まっていて、とても珍しいものを見てしまったと悪い事をしているような気分にさえなってしまう。


「それは……どうも」


 いつもより固い声で、口元を押さえるヴィクトル様はどう見ても照れている。そんな様子がおかしくて、わたしは肩を揺らして笑ってしまった。

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