29.諦めることを認めて

「エドラ……」


 声が震えるのが分かった。

 わたしの前に立つエドラは、怒りの形相でわたしの事を見下ろしていたから。


 エドラの少し後ろには、以前に文具店の前で会った男性が立っている。前回のような嘲笑するような様子はないけれど、どこかぼうっとした視線でこちらを見てくるのが、それはそれで気持ちが悪い。


「どうしてお姉様がここにいるの」

「連れてきて下さった方がいるのよ」

「ふぅん……いい気なものね。うちにお金も送らずに、そんな素敵なドレスを着るなんて。そのイヤリングだってとっても高価そう」


 胸の前で腕を組んだエドラは不服そうに頬を膨らませている。

 今日もエドラは綺麗だった。光り輝く金髪は下ろされていて、美しい宝石をたっぷりと使った髪飾りで彩られている。肩が露わになったドレスのデザインでも派手に見えないのは、ふんだんに使われているレースで品良く作られているからだろう。


 まるで御伽噺に出てくる妖精のような可憐な美しさがあった。

 でもその表情は怒りに満ちて、わたしの事を睨みつけている。


 向かい合う事には慣れない。

 いつだってわたしは嘲るように笑われてきたから。


 それを思うと悲しくなるけれど……でも、以前ほど辛くないのはヴィクトル様が心を守って下さったおかげだ。わたしは大切に思われていると教えてくれたから。


「仕送りは充分にしているわ。毎月のお給料からもだし、先日だって臨時でお金を送ったばかりよ」


 わたしが言い返すと思っていなかったのか、エドラが大きな目を丸くする。それも一瞬の事で、更に鋭い視線を向けられた。


「まだ足りないわ。あれだけのお金で足りるわけがないでしょう」


 わたしが送っているお金は相当なものになるけれど。でもエドラはどれだけ送っても満たされる事はないのだろう。


 わたしが送っているお金は、わたしが一生懸命働いた対価として貰ったお金だ。

 色々な事を諦めて捻出したお金もある。でもそんなのエドラには伝わっていないのだ。


「あれくらいのお金しか送ってこれないから、隣国にお嫁に行く事になっちゃうのよ」


 嘲るようなエドラの声に、顔から血の気が引いていくのが分かった。

 お父様がわたしを結婚させようとしている事を、エドラも知っているのだ。エドラはそれを……楽しんでいるようにも見える。


「ねぇお姉さま。どんな気持ちなの? 会った事もない男性の元に嫁ぐのって、どんな気分なのかしら。愛して貰えたらいいわね」


 エドラは軽やかに笑いながら、そんな事を口にする。その瞳には愉悦が宿り、わたしを傷付けようとしているのが分かった。


「伯爵家の為になる事をしていたら、これからも家族でいられるわ。ねぇそうでしょう、お姉さま」


 家族。

 そう言えば、わたしが頷くとエドラは分かっているのだ。


 わたしがその言葉に縋っているのを知っているから。でも……今は、その言葉に心が動く事はなかった。


「……もういいの。家族になれなくても、もういい」


 ぽつりと零れてしまった言葉は、紛れもなくわたしの本心だった。

 縋る事が無駄なのだと、分かっていたのに認められなかっただけ。

 いつか訪れるかもしれない未来を夢見ていただけなのだ。


 でもそれが訪れないのなら、諦めたっていい。

 そう思えた。


 エドラはわたしの言葉に目を丸くして、理解が出来ていないようだった。

 それもそうだと思う。わたしがどれだけ家族の輪に入りたがっていたか、よく知っているから。


 わたしは家族になれなかった。それだけ。

 寂しさの他に……少し、ほっとしている自分がいるのが不思議だった。寂しいし辛いけれど、でも……これ以上惨めな気持ちにならないで済む。


「本気なの? お姉様がそんな可愛くない事を言うから、家族になれていないだけなのに。後悔したって知らないわよ」


 この先、後悔する事があるかもしれないけれど、深い悲しみに覆われる事はないだろう。

 幼い頃、誰もわたしの事を気にかけてくれなかった時のような悲しみはもう訪れない。


「アンジェリカ、離れてすまない」


 諦めを胸に抱いていたわたしの腰に腕が回る。引き寄せられた先では、森を思わせるようなコロンの香りがした──ヴィクトル様だ。


「いえ、もうよろしいのですか?」

「うん」


 暖かい。

 寒さなんて感じていなかったのだけど、こうしてヴィクトル様に触れているとその温かさに涙が溢れそうになる。息を大きく吸ってそれを堪えると、分かっているとばかりにヴィクトル様が抱き寄せるのとは逆手の親指でわたしの目元をそっと撫でた。


「まだ食べたいものは?」

「ふふ、もう大丈夫です」

「じゃあそろそろ帰るか。スティーグ殿下も下がったようだしね」

「はい」


 エドラからお父様たちへ話が行くだろうけれど、もう何を言われても構わないと思った。

 わたしの結婚も、この国を離れるのも、殿下が止めて下さると言った。もう家から出されるかもしれないけれど、それでもいい。


 そう思いながらその場を離れようとした時だった。


「あの!」


 声を掛けてきたのはエドラだった。


「私、エドラ・ブランシュと申します。ヴィクトル・エーヴァント様ですよね? お会い出来て嬉しいです!」


 両手を口元に寄せて微笑むエドラは、可憐で可愛らしい。

 ……可愛いと思ってしまう自分が嫌になるけれど、でも……エドラが可愛いのは本当なのだ。


「どうも。では失礼」

「待ってください。折角お会い出来たんですし、お話できませんか?」

「後ろで立っている婚約者の方とお話してはいかがかな」


 エドラの後ろで茫然としている男性は、婚約者だったのか。

 前回と違って今日は随分と大人しいから、その存在も少し忘れかけていたのだけど。


「彼とはいつも一緒にいますから。ヴィクトル様は研究所にお勤めされているんですよね?」

「私の名を呼ばないように。君にそんな許可はしていない」


 冷たい声に、その場の空気も凍るようだった。

 見上げた先、ヴィクトル様の青い瞳には明確な敵意が宿っている。鋭い眼差しに、エドラはそれ以上何も言えず、ただ口をぎゅっと引き結んだ。


「行こう、アンジェリカ」

「は、はい」


 視線を合わせてくれる頃には、その表情はいつもの優し気なものに変わっていた。

 何となく居心地の悪さを感じながらヴィクトル様と歩き出す。


 大広間を出た際に見えたエドラは、熱の籠った視線をヴィクトル様に向けているように見えた。

 また何かが起こりそうな予感に、頭が痛くなりそうだった。

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