30.魔法が解けるまで
ヴィクトル様のお屋敷に帰ってきて、待っていてくれた公爵家の侍女に出迎えられる。
楽しかったと夜会の感想を伝えていたら、ヴィクトル様に腕を引かれてしまった。
「アンジェリカ、もう少しいいだろうか」
「はい、大丈夫です」
ほっとしたようなヴィクトル様につれられてやってきたのはサロンだった。
ソファーに座るよう促され、大人しくそれに従った。ドレスの裾を軽く直して座り直すと、ジャケットを脱いでソファーの背凭れに掛けたヴィクトル様が紅茶を淹れてくれる。ヴィクトル様も疲れているだろうに、その手捌きはいつもと変わらないものだった。
わたしの前に置かれた紅茶はミルクで優しく濁り、湯気を立てている。
有難くそれをいただく事にして、カップを口元に寄せた。お砂糖を落としてくれているから、ほんのり甘くてとても美味しい。
なんだかほっとしてしまう味だった。
「……一人にしてすまなかった」
隣から掛けられた声は沈んでいる。
びっくりしてしまってヴィクトル様に顔を向けると、形のいい眉は悲愴に下がってしまっているし、青い瞳には後悔の色が深く見える。
わたしは持っていたカップをソーサーに戻してから、ヴィクトル様に体を向けた。
「離れなければ良かった。近くに君の妹の姿は見えなかったし、研究所の者達で固まっていたから大丈夫だと思ったんだ。いや、全部言い訳にしかならない。……今日の夜会は君に嫌な思いをさせたくなかったんだけど」
深く項垂れてしまうヴィクトル様に、わたしは首を横に振った。
絡まれたし、ひどい事も言われた。でも……以前程の苦しさはないのだ。
「大丈夫です。気を遣って下さって、ありがとうございます」
「いや、気を遣ってるのは君の方だろ」
「ひどい言葉を掛けられたのは確かなのですが、でも……前のように辛くはないのです」
わたしの言葉に、ヴィクトル様が顔を上げる。
未だにその表情は暗く、わたしよりもヴィクトル様の方が傷付けられてしまったみたいだ。
「ヴィクトル様が、わたしの心を守って下さったから」
「……俺が?」
「わたしは頑張ってきたって。誇っていいって。大切に思われているんだよって教えてくれたじゃないですか。だから……妹の言葉は、前よりもわたしの心に届かなかったんだと思います」
「……そうか。でもそれは、君の強さだ。俺の失態が消えるわけじゃない」
困ったようにヴィクトル様が笑う。そんな表情を見ていたくなくて、わたしは思わず──ヴィクトル様の頬に片手を伸ばしていた。
頬を包むように手を添える。ヴィクトル様は一度ゆっくりと瞬きをしてから少し笑い、わたしの手に頬を擦り寄せた。
「ヴィクトル様、わたしもいい大人です。全てから守って下さろうとしなくて大丈夫なんですよ」
「だけど、夜会に連れ出したのは俺で……」
「行くと決めたのはわたしです。それよりも……わたしの事を褒めてくださいな」
頬に触れるわたしの手を、ヴィクトル様の手が包む。頬から手を落とす事も出来なくて、わたしはそのまま、わたしの温もりがヴィクトル様の頬に移るのを感じていた。
「わたし、エドラに言ったんです。もう家族になれなくていいって」
その言葉にヴィクトル様が目を瞠った。
驚くのも当然だと思う。わたしがどれだけ家族に焦がれていたか、ヴィクトル様は知っているから。
「強がりでも何でもなくて、それでいいって思えたんです。わたしが……どれだけ望んでも、わたしは家族の輪に入れない。それを認めるのは辛かったけど、でも……もう惨めさを感じなくて済むと思ったら、少しほっとしてしまったのも事実で……」
自分で納得しているのに。後悔なんてしていないのに。
感情の昂ぶりで目の奥が熱くなる。視界が涙で滲んで、瞬きしたら頬を伝って流れていった。
「もしわたしが受け入れられたとして……でもきっと、わたし達は対等じゃない。あの人達はわたしを対等に見ていないし、きっとわたしもそうなんだと思います。諦めもつきました。それを認めて伝えられた……妹と話せたのは、いいきっかけだったのかもしれません」
「……アンジェリカ」
「それを伝える事が出来たのは、自分に自信が持てたからで。こうして綺麗なドレスを着て、お化粧をして貰って、髪も飾って貰って……自分で、自分の事を素敵だと思えたからなんです。だからこれもヴィクトル様のおかげですね」
笑ったつもりが、溜息のような吐息が漏れた。
これでは嗚咽を我慢しているみたいだ。涙は流れているけれど、でも悲しいとはまた違って……。
そんな事を考えていたら、ヴィクトル様の頬に触れたままの手がぎゅっと握られた。そして強く引っ張られ、わたしはヴィクトル様の腕の中におさまっていた。
両腕できつく抱き締められ、あまりの衝撃に涙も止まったみたいだ。
逃れる事を許してくれないほどに、腕の力は強い。耳に響く心音が自分のものなのか、ヴィクトル様のものなのかも分からなかった。
ああ、まただ。
胸の奥がちりちりとして甘く疼く。心臓が騒がしく、落ち着かない。でもこの場所から逃げたいとは思わない。
抱き締めてくれる腕から、わたしの体中に熱が広がっていく。
ああ、わたし……ヴィクトル様の事が好きなんだ。
そう思った。
胸がちりつくような不思議な感覚はもう、恋が始まっていたんだ。
それに気付いたけれど、でも……このヴィクトル様の優しさを勘違いしてはいけないとも思う。
何もかもが釣り合わないもの。この想いと同じだけの熱を返してほしいなんて願ってはいけない。
好きな気持ちが、少し怖く感じる。この気持ちをなかった事に出来ないって分かっているのに、どうにか出来ないだろうかと足掻きたくなる。
恋をして世界が広がっていくのが怖い。
だってわたしは近い内にこのお屋敷を離れるし、こうやってヴィクトル様の隣に居られれる事もなくなるもの。
でもそうしたらきっと……世界から輝きが消えてしまうんだろうなって、そう思う。
わたしの世界が狭いままなら、失うものは少なくて済むもの。
だけどもう、手遅れなんだろうな。
そんな事を考えながら、わたしもヴィクトル様の背に両手を回した。
応えるように、わたしを抱き締めるヴィクトル様の腕に力が籠もる。
どうか今だけ。
今だけはこうして触れる事を許して欲しい。
着飾った魔法が解けるまでは。
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