45.儀式当日

 伯爵家との面談が終わってから数日が経った。

 あの後もエドラは手紙を届けに来ていたらしいけれど、それはもう研究所で受け取らないようになったらしい。

 研究所の長であるスティーグ殿下の決定という事で、伯爵家もそれ以上は何も言えなくなっているそうだ。


 そして、今日──儀式の日を迎えたわたしとヴィクトル様は、女神光教の大神殿に居た。

 控室で待機をしていたわたし達の元に、スティーグ殿下がやってきて下さった。儀式という事で正装をされている。肩マントを翻すそのお姿は高貴さを感じさせた。


 わたしとヴィクトル様もいつもの制服ではない装いだ。わたしは落ち着いた紺色のデイドレス。ヴィクトル様はわたしの装いに合わせたジャケットとスラックスを選んで下さった。


「掛けてくれ」


 勧められたソファーにヴィクトル様と並んで座る。


「今日は朝から精霊達も騒がしい。儀式が成功するのは間違いないだろう」


 スティーグ殿下が珍しく微笑を浮かべている。いつもはそんな表情を出すこともないお方だから、今日はとても機嫌が良いというのがわかる。

 私とヴィクトル様も精霊との縁ができたとはいえ、精霊が騒いでいるというのまでは読み取れない。やっぱりそこは精霊術士であるスティーグ殿下にしか分からない事なのだろう。


「さて、まずは誓約を破棄するか。ヴィクトル」

「はい」


 ヴィクトル様がジャケットの内ポケットから折り畳まれた魔法布を取り出した。テーブルの上に広げられたそれは、ほんのりと青い光を放っている。


 魔法布には魔法式が描かれていて、魔方陣の中心には今回の守秘義務に関わる契約についての文言が記されている。

 促されるままに私はその魔法陣の上に手を翳し、ヴィクトル様とステイーグ殿下も同じように続いた。


 左手の中指に嵌り、皮膚と癒着している黒い指輪が魔法布と同じように青い光を帯び始める。

 

 ヴィクトル様が低い声で詠唱を始める。滑らかに紡がれる詠唱は聞いていてとても気持ちがいい。

 詠唱が終わると指輪が熱を持ち始める。それに呼応するように魔法陣の青色も光を強く放ち始めた。その光が点滅したかと思えば指輪にヒビが入っていく。

 高くて澄んだ音を響かせて指輪は弾けて消えてしまった。


 あとには光を失った魔法布だけが残されている。

 ヴィクトル様はその魔法布を畳んでから、また内ポケットにしまいこんだ。


「これで守秘義務に関する誓約は破棄された。アンジェリカ嬢の功績を大々的に口にできるな。それと……君には話しておきたいことがある」


 他に何かあったのだろうか。

 不思議に思って首を傾げるも、隣に座るヴィクトル様に動揺はない。もう知っている話のようだ。


「ラウリス・オルソンに処分が下された」


 その言葉にはっと息を飲む。

 処分ということは、ラウリス先輩はやっぱり罪を犯していたのか。わたしへの暴力未遂だけではないのだろう。


「彼は懲戒解雇となった。証拠が充分であった事もあり、言い逃れは出来なかった。横領の被害金額については実家の子爵家が補填し、子爵家は彼を放逐したそうだ。平民となったわけだが、王都への立ち入りは禁止され、魔導研究の関連施設には今回のことが周知されている。もう研究職に就くことは難しいだろうな」

「人の研究を盗むような奴が研究者を名乗るのも烏滸がましいんですよ。アンジェリカは……自覚がなかっただろうけど、彼に利用されていた」

「わたしに関しては、わたしが悪かったんです。頼られるのが嬉しくて、なんでも頼まれるままにしていましたから。でももう気をつけます」

「そうしてくれ」


 ラウリス先輩ともう会うことはないだろう。

 きっと彼も研究が好きで、この道に進んだはずなのに。どこで間違ってしまったのだろうか。それを問うことはもう出来ないけれど、もう道を間違わないでくれたらいいと、そう願うばかりだ。


「さて、そろそろ儀式の時間だ。行こうか」


 スティーグ殿下の言葉を合図に、わたしとヴィクトル様も立ち上がる。

 これから、儀式が始まるのだ。精霊王が目覚める儀式。それに立ち会えることに胸が沸き立つのを感じていた。


 ***


 大神殿の女神の間。

 いつもは固く閉じられているらしいその場所には、たくさんの人が集まっている。

 一番奥には大きな女神様の石像がある。片手には長くて大きな杖を持ち、その先端にある宝石には女神様の紋様が刻まれていた。わたしの手の甲にある紋様と同じものだ。


 女神様の石像の下には大きな籐のゆりかごが用意されている。

 きっとそこに精霊王様をお呼びするのだろう。


 国王陛下をはじめとした王族の方々は用意された席に座っている。女神光教の教皇様の後ろには各国の神殿を預かる司祭様達が並んでいた。それから今回の儀式を執り行う魔導士と精霊術士達。

 スティーグ殿下は儀式を直接指揮する立場にいるらしく、王族の席ではなく魔法陣の中央に居た。


 そして静かに儀式が始まった。


 わたしが構築した魔法式が魔術士達の手によって魔法陣として浮かび上がる。

 必要な魔力の計算も合っているようで、問題なく魔法式が順番に組み立てられていくのがわかる。


 不意に、頬に触れる温もりを感じた。

 驚いてしまって肩を跳ねさせると、そこには精霊がやってきていた。


 わたしの肩に乗った猫が頬に頭を擦り寄せてくる。

 驚きと喜びに漏れそうになる声を抑えながら隣に立つヴィクトル様に顔を向けると、ヴィクトル様の頭の上には精霊が丸くなって欠伸をしていた。


 目が合うとヴィクトル様は少し苦笑いをしているものだから、笑い声を堪えるのに必死になってしまった。


 精霊がその数を増やしていく。

 喜んでいるのだ。精霊王が目覚めを迎えるということを精霊も理解しているのだ。


 猫の姿が見えなくとも、精霊が光となって見えているであろう人々は周囲の光景に驚きを隠せないでいた。

 教皇様は涙を流している。


 天井に大きな魔法陣が描かれた。

 魔法陣は虹色に輝いて、虹色の粒子が霧雨のようにゆりかごへと降り注ぐ。


 光が集まる。

 精霊達が嬉しそうににゃーと鳴いた。


 そして──より強い光が溢れて目が眩んでしまう。波が引くように光が落ち着いたと思えば、ゆりかごの中には小さな子どもが現れていた。年の頃は三歳くらいの子どもに見える。


 背中には虹色の六枚羽根を持ち、金色の髪からは黒い猫の耳が覗いている。

 ぼんやりとした黒い瞳で周囲を見回したあと、精霊王様は嬉しそうに笑った。


 次の瞬間、歓声が沸き起こった。

 驚いたように精霊王様が肩を跳ねさせる。その眉が下がり、今にも泣き出してしまうのではないかと思ったら──女神像が光を放った。


 その光は人の形を写し出し、ごうと強い風が巻き起こる。

 風の去った後に立っていたのは、とても美しい女性だった。女神像と全く違わぬ容貌をしているそのお姿が、一体誰なのかなんて問わなくても皆がわかっている。


 誰に促されるわけでもなく、わたし達はその場に跪き頭を垂れていた。

 両手を祈りの形に組み、額に押し当てる。わたしの肩でのんびりと鳴く猫の声が酷く場違いのように聞こえた。


『人の子達よ、顔をあげて。精霊王を目覚めさせてくれてありがとう』


 優しい声にゆっくりと顔を上げる。美しい微笑みを見ているだけで、胸の奥がぐっと詰まるような感覚に、何故だか涙が零れそうになる。


 女神様は音も無くゆりかごに歩み寄り、精霊王様を片手に抱き上げる。

 機嫌よくきゃっきゃと笑う精霊王様の頭に頬を擦り寄せながら、女神様がこちらを見た。そう、わたしを。


 目が合っているのは気のせいだろうか。

 心臓がばくばくと騒がしいのに、目を逸らす事が出来ない。


 女神様がにっこりと笑う。その瞬間、手袋で隠れている手の甲の文様が熱を持った。

 手袋越しでも文様が光を放っているのが分かる。


 女神様はわたしに向かって片目を閉じて見せた後、教皇様に顔を向けた。


『これからはわたくしもこの世界を守りましょう』


 咽び泣く教皇様の声が響く。

 でも目の奥が熱くなっているのはわたしも一緒で、この場に居る人達はきっと同じ気持ちだったと思う。


 精霊王様をゆりかごに戻した女神様は、また杖をしっかりと握り直す。

 その杖をわたし達に向かって大きく振ると、杖から溢れる金の光がわたし達へと降り注いだ。


 そして、女神様は消えてしまった。

 でも、女神様がこの世界にいるのだ。わたし達の側にいてくれる。


 静まり返った女神の間に、機嫌よく笑う精霊王様の声だけが響いていた。

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