アンジェリカの好きなもの~溺愛は同居からはじまって~
花散ここ
1.いつもと変わらない日
少し開けておいた窓から、強い風が吹き込んでくる。
積み重ねていた紙の束が机の上から崩れ落ちた音に、わたしは肩を跳ねさせた。
「……びっくりした」
ばくばくと騒がしい胸を片手で押さえながら立ち上がり、窓を閉める。窓を開けた時にはまだ夕方だったはずなのに、外はすっかりと暗く、夜の帳が降りていた。
街の明かりが賑やかで、空にもその色が映っている。夕陽の名残を思わせるようなオレンジ色の灯りが綺麗だと思った。
時計を見るともう終業時間を三時間も過ぎていた。
同僚が退勤の挨拶をしてきたから返事をして……それから大して時間が経っていないと思っていたのだけど。少し集中しすぎてしまったようだ。研究室の中には、わたし以外誰もいなかった。
ここは王立魔導研究所。
わたし──アンジェリカ・ブランシュはここで研究員として働いている。
担当している仕事内容は古に使われていたという魔法を復元するための研究と、それから現在の魔法をもっと使いやすく洗練されたものに変えていくための構築式を作ること。
落ちてしまった紙の束を拾い集めてから席に戻る。机の上を少し片づけてから、両手を天に大きく伸びをした。背中が伸びる感覚が気持ちいい。
姿勢を戻して息を吐くと、ぐぅとお腹が鳴った。
「お腹空いたな」
今から寮に戻っても、夕食はないだろう。夕食の時間はとっくに過ぎてしまっている。
携帯食料でいいや。正直、空腹が紛れたら何でもいいのだ。
そう思いながら机の引き出しを漁っていると、力強いノックの音が響いた。その音にびっくりしたわたしは、整えたばかりの紙の束をまた落としてしまった。
「は、はい!」
散らばった紙を拾い集めながら、返事をすると大きくドアが開く。
入室してきたのは背の高い男性で、わたしの姿を見ては大袈裟に溜息をついて見せた。
「明かりがついていたからまさかとは思ったが、まだ残っていたのか」
「すみません……」
ヴィクトル・エーヴァルト様。エーヴァルト公爵家の令息である。
この研究所の所長秘書官として、一か月前に赴任してきた。
研究所の所長が王弟殿下から第二王子殿下へと変わり、第二王子殿下の側近だったエーヴァルト様も一緒にやってきたというわけだ。
長い銀髪を高い位置で結び、切れ長の瞳は深い青。
赴任した時には研究所の職員たちが、その美貌に色めきだったものだけど、誰からのアプローチもきっぱり断られてしまうらしい。雰囲気は柔らかいのに、深入りさせないように一線はしっかり引いているように見える。
期待も残さないほどの断り方は清々しくもあって、逆にファンを増やしているというのは研究所で事務官をしている友人から聞いた話だ。
そしてエーヴァルト様は、残業にはなかなか厳しい人でもあった。
「叱っているわけじゃないんだ。でも急ぎの仕事ではないんだろう?」
「はい、そうではないんですが……つい、興が乗ってしまいまして」
「悪癖だな」
「返す言葉もありません……」
呆れたようにまた溜息をついたエーヴァルト様は、わたしの机に紙袋を置いた。
なんだかいい匂いがする。匂いに反応して、またお腹が小さく鳴った。
「夕食もとってないんだろ? それを食べたら今日はもう帰れ」
「え、と……もう少しだけ」
「あと一時間。それ以上残ったら無理矢理締め出すぞ」
立てた人差し指をわたしに突きつけながら、エーヴァルト様はにっこり笑う。
笑みを浮かべているのに、背筋が冷えるような感覚にぶるりと体が震えた。そしてエーヴァルト様は本気でそれをやるという事を、この一か月でわたしは充分に思い知らされていた。
「これを食べて、一時間で帰ります」
「よし。気を付けて帰れよ」
「はい。あの……ありがとうございます」
エーヴァルト様は小さく頷くと、踵を返して研究室を去っていった。
しばらくドアを見つめてしまったけれど、はっと我に返ったわたしは紙袋に向き合った。あと一時間しかないのだから、急がなくては。
紙袋に手を入れて、中身を取り出す。
小さな紙箱に入っていたのはお肉の挟まったサンドイッチだった。お肉と野菜がたっぷりで、とても美味しそう。
両手を組んで女神様と精霊に感謝の祈りを捧げてからいただこう。
食べやすいようペーパーに包まれているサンドイッチをひとつ手に取り、わたしはそれに齧り付いた。
「……美味しい」
そういえば、今日は朝食をとったきり、何も食べていなかった。研究に集中していたのもあるけれど、昼食を買いに行くのも面倒だったのだ。
お腹が膨れたら何でもいいので、わたしの机の引き出しには携帯食料が詰まっている。遠征のお供にも使われる携帯食料は、それなりに食べられるし何より日持ちがするのがいい。
美味しいか、美味しくないかは分かる。
でもそこに価値を見出せない自分には、携帯食料で充分だと思っていた。でもこうして温かな食事を口にすると、なんだか……お腹が膨れる以上の何かがあるような気がする。
「温かいから、美味しいのかな」
食べやすい大きさに切られている鶏肉はとても柔らかい。
甘くて酸っぱいソースは初めて食べた。
「どこのお店のものかしら。これはまた食べたいかも……」
そんなに遠くないお店だといいな。それから、そんなに高くないとありがたい。贅沢な食事をするだけの余裕はない。
そう思いながら味わってゆっくり食べていたら、あっという間に時間は経ってしまっていて。
続きをやるだけの時間もなかったから、机周りを片付けて研究室を後にした。
***
わたしは研究所の寮で暮らしている。十八歳で入所してからから、ずっと。
寮までは歩いて行ける距離で、いつも机に齧りついているわたしにはいい運動になっていると思う。
春になって随分過ごしやすくなった。研究所支給の制服であるワンピースと白衣だけで歩いていても、寒さに震えなくて済むもの。
見上げた空には大きな月が出ていて、薄い雲がかかっているのが綺麗だと思った。昔、本を見ながら探した星は、月の明るさに負けているのか、その姿を見つける事は出来なかったけれど。
帰ってきた寮は静かだけど、各々の部屋の明かりはついている。みんな一息ついてのんびりするような、そんな時間なのだろう。
届いていたという手紙を寮母さんから受け取って、自室に入る。
明かりをつけたその部屋はなんだかひんやりしていた。備え付けのベッドと書き物机、本棚があるだけの物寂しい部屋だ。
ベッドに座り、手紙の封を切る。
差出人は母親で──妹のドレス代の為に、いつもより多くお金を送って欲しいという内容だった。
わたしを気遣う言葉もない。
ただ、用件だけを記した寂しい手紙。
「請求書みたい。……そんな事を言っちゃいけないわね。折角手紙をくれたんだから」
ぽつりと零した声は、静かな部屋に溶けていった。
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