20.心を傾けるのは(ヴィクトル)
泣き疲れて眠ってしまったアンジェリカを抱きかかえ、ヴィクトルはアンジェリカの部屋に入った。
カーテンが開いたままの窓からは、月の明かりが差し込んでいる。
アンジェリカをベッドに寝かせて、涙の残る目元を指でなぞる。赤くなってしまった目元に治癒魔法を掛けて癒やしても、ヴィクトルの表情は曇ったままだった。
女性の部屋に入って、周りを見るのは不躾だと分かっていながら、ヴィクトルは周囲を見回して溜息をついた。
物が少なすぎる。
彼女の私物が少ない事は、寮から屋敷に移動する時の荷物で分かっていたつもりだった。
だが改めて見てもやっぱり少ない。
部屋を用意した時から、変わっている所なんて少ない。
本棚に本がある事と、書き物机の上にペンが転がっているくらいか。開かれているクローゼットに掛かっている服は少なく、そのうちの何着かは研究所の制服と白衣だ。
もしこの部屋を出るとして、彼女は一時間もかからずに荷物を纏めてしまうだろう。
そんな様子が簡単に想像出来て、苛立ちが募った。彼女の生家にも、自分にも。
アンジェリカの境遇を調べて、理解しているつもりで……何も分かっていなかった。
彼女の気持ちに寄り添っているつもりで、それが出来ていなかった。出来ていたならきっと、アンジェリカはこんな風に泣かなかった。
ベッド横の床に膝をつく。
顔にかかる薄茶の髪をよけてやると、擽ったいのか眉間に少し皺が寄る。その皺を撫でると、すぐに解ける様子に笑みが零れた。
痩せていた体は、だいぶ健康的になったと思う。
目の下から消える事のなかったクマも、この屋敷に来てから薄くなり、今はもう出てきていない。
手入れされた薄茶の髪には艶が出てきている。肌の調子も良いのは王宮から来ている侍女のおかげか。
このまま健やかに過ごして欲しいと思う。健やかに、毎日が笑み溢れるものであってほしいと……そう願うのだ。
その願いが庇護欲からくるものだけではないと、ヴィクトルは気付いている。
これだけ長い時間を共に過ごしたのだ。自分の料理を美味しそうに食べてくれる彼女が、これからも幸せでいて欲しいと、心から願う。
だからこそ、伯爵家からの手紙は到底許せるものではなかった。
彼女の意思も確認せず、一方的に結婚を決めるなんてありえない。貴族子女として政略結婚もあるだろう。だが……今回の件は政略なんてものではない。
ただアンジェリカを道具としてしか見ていないような、そんな結婚。ヴィクトルはそれが許せなかった。
結婚相手となった隣国の文官についても調べなくてはならない。優秀なアンジェリカを求めての事なのか……いや、給料の半分を夫に渡す約束もおかしいだろう。それを是とする男だ、ろくでもないに決まっている。
怒りの気配でアンジェリカを起こしてしまわないよう、深くて長い溜息を吐く。
それでも気持ちが落ち着く事はなくて、ヴィクトルはアンジェリカの手を取った。自分よりも小さくて華奢な手をそっと握る。ひんやりと冷たい手だった。
彼女は……家族に認められる事を願っている。だが賢い彼女は、それが叶わない事だとも理解しているのだ。それでも諦める事ができないから辛いのだ。
アンジェリカから搾取する事しか考えていない伯爵家など捨ててしまえばいい。そう思うのは、他人だからだ。割り切る事が出来るなら、彼女はここまで苦しむ事もなかっただろうに。
何を大切にするかは、人それぞれだ。自分から見てろくでもない家族でも、アンジェリカにとっては違うのだろう。
それは分かっている。だが……あの伯爵家からアンジェリカを離したいとも思う。
伯爵家が考えを改めるならいい。だがそれを期待できる奴等ではないだろう。いつまで経ってもアンジェリカから奪う事しか考えないのだ。
「……俺は君に、何が出来る?」
ぽつりと呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
アンジェリカの為に何が出来るのか。
いや……そもそも、どうしてここまで心を傾ける?
アンジェリカとは職場が同じではあるものの、今まで深い接点があるわけではなかった。
この任務が終われば、その関係性に戻るのだろう。この同居生活も終わりを迎え、きっとすぐに彼女のいない生活に慣れる。
自分が深入りする必要もない。ヴィクトルはそれを充分理解している。
だが理解していながらも、彼女を放っておく事は出来なかった。
一緒に生活をした人が、不当な扱いをされるのは夢見が悪い。
妹みたいに思っているから。同情、庇護欲……理由なんてあげようと思えば幾らでも言葉に出来る。
それが言い訳めいている事には、気付かない振りをして。
自嘲に溜息をつくと、握ったままのアンジェリカの手に力が籠もった。そっと握り返される手に起こしてしまったのかと顔を見るも、変わらず眠りの中にいる。
だがその口元は少し綻んでいるようにも見えた。
見つかった好きなものを教えてくれる時のような、ささやかだけど嬉しそうな笑みをしている。
選ぶ事が出来なかった過去のせいで、好き嫌いを判断するのが苦手なアンジェリカ。
最近は好きなものが分かってきたみたいで、俺の料理を口にした時の反応も変わってきた。それを見るのが嬉しい自分もいる。
自分の作ったものを、美味しいと、嬉しいと食べてくれる人がいる。
彼女が好きだという食べ物は、今のところは自分が作ったものだけだ。美味しいものと、好きなものは違うのだと、彼女も分かってきたらしい。
小さな手をぎゅっと握る。
今日はもう起きてこないだろう。起きたら分かるように探知魔法を展開するか考えて……それは気持ちが悪いなと苦笑いを零した。
あとで軽食を用意しておけばいい。そうしよう。
そう思って立ち上がろうとするが、繋いだ手の温もりが心地よくて離れがたいなんて考えてしまう。
「何を考えてるんだ、俺は」
呟きをきっかけとして、ヴィクトルはゆっくりと手を離した。
月明かりに照らされたアンジェリカが儚く見えて、空咳を繰り返す。さっと窓辺に近付いたヴィクトルは、カーテンを閉めてから足早に部屋を後にした。
繋いだ手の温もりを惜しむよう、ぎゅっと固く拳を握り締めながら。
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