19.感情が溢れる

 沈黙が部屋に満ちる。

 もう温もりのないマグカップを口に寄せる。冷めてしまったミルクティーは甘みが強くなっていた。


「……悪い」

「いえ、ヴィクトル様が謝るような事はありません。それより伯爵家うちが失礼な事を申し訳ありません」


 ヴィクトル様は深呼吸を繰り返してから、わたしの持つマグカップに目を向けた。

 冷めている事に気付いたのか少し眉が下がった。


「新しいものを入れるか」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」

「そうか」


 また部屋が静まり返る。先程よりもヴィクトル様のお顔には表情が戻ってきているけれど、重苦しい雰囲気は消えてくれない。

 気持ちも上向かないから、わたしもきっと暗い顔をしているのだろう。


「まず……君がこの国を離れる事は認められない」

「そうですよね……今は古代魔法を復活させるという大事な任を受けている最中ですし」

「それもあるが、今回の件が終わってもだ。この偉業を成した君を国が手放す事はないだろう」

「ではわたしは……今の研究所に居てもいいんですか?」

「居てもらわないと困るな」


 ふっとヴィクトル様の表情が和らいだ。

 それに安堵したわたしは、深い息を吐いてしまった。安心する気持ちと、父の命に背く事になる不安と……色んな気持ちが綯い交ぜになって、どうしていいか分からない。


 またさっきのような絶望感がにじり寄ってくるようで、ミルクティーを一口飲んだ。そうすれば落ち着くような気がしたから。


「この結婚については殿下に相談して止めて貰おう。貴族子女が他国に嫁ぐ時には陛下の許可がいる。止められるから安心してくれ」

「はい……」


 父はそれに納得してくれるだろうか。

 自分の思い通りにならない娘に苛立って……その苛立ちをぶつけられるのはわたしなのだろう。


 貴族の家に生まれた娘として、結婚が自分の意に沿うものばかりでないのは理解している。家の利になる為に嫁ぐ事だって覚悟していた。でも……これはあまりにもひどくないだろうか。


 せめて説明をしてくれたら。せめて直接伝えてくれたら。わたしの結婚を祝ってくれたなら……受け入れる事が出来ただろうに。


「アンジェリカ、君の思いを俺に伝えてくれないか」


 沈んでいきそうになる思考を押し留めたのは、ヴィクトル様の優しい声だった。

 顔を上げてそちらを見ると、わたしを真っ直ぐに見つめる青い瞳と目が合った。海のように深い青色からは、わたしを気遣ってくれているのが伝わってくる。


 零してもいいのだろうか。

 わたしの気持ちを、伝えても迷惑ではないだろうか。


「俺に教えてほしい。君が何を思って、どんな気持ちでいるのかを」


 優しい声に促されて、わたしは口を開いた。


「……父にとって、わたしは大切な娘じゃないんだって、改めて思い知らされてしまって……悲しいんです。手紙で婚約を伝えるのも、結婚の支度をしてくれないのも、結婚を祝ってくれないのも……何もかも。父にとってそれだけの存在しかないんだなって」


 声が震えた。

 笑って見せようとしても、うまく出来ないから諦めた。笑えたとして、それが虚勢だとヴィクトル様は気付いてしまうだろうから。


「お金を運んでくるだけの存在で、結婚してからもそれは変わらないんだと思うと……わたし、何の為に──」


 ──生きているんだろう。


 自分の為にじゃなくて、伯爵家の為に生きている。でも伯爵家の皆にとって、わたしは家族じゃなくて……わたしは家族になれなくて。


 苦しい。

 悲しい。

 辛い。


 でもその気持ちを、あの人達は知ってくれない。わたしの感情なんて、あの人達に関係ないから。


「……わたし、家族になりたかった。叶わないって分かっているのに」


 黒い感情が心に突き刺さってくる。刃のように鋭くて、鉛のように重い。

 それを抱えていられずに、わたしの頬に涙が伝った。一度溢れてしまった涙は止まる事を忘れてしまったように流れるばかりだ。


 何も言わずに話を聞いてくれていたヴィクトル様が、不意にわたしの手からマグカップを取っていった。それをテーブルに置いて、次の瞬間──わたしはヴィクトル様に抱き締められていた。


 わたしよりも大きくて、わたしよりも高い温度の体に包まれる。力強い両腕が背に回り、ぎゅっと抱き締められる。


 こうして誰かと触れるのはいつ振りだろう。

 抱き締めて貰った記憶なんて、遥か遠い過去の事。


 自分と違う温もりに涙が更に溢れた。


「わた、し……っ、求めるのはもう、疲れたのに……! 諦め、られなくて……でもそんな自分が、情けなくてっ、惨めで……、嫌いなんです」


 抱き締めてくれる腕に力が籠もる。

 縋りたくて、ヴィクトル様の背に両腕を回してわたしからも抱き着いた。


「こんな気持ちを、持ってるわたしだから……っ、だから、好かれないって……家族に入れて貰えないって、分かってるのに……っ! でも、どうしていいか分からなくて……」


 ヴィクトル様は何も言わず、頷いてくれる。

 初めて外に出してしまった感情は、堰が壊れてしまったように止める事が出来なくなった。嗚咽塗れの声はみっともないくらいに震えている。


「お、お金を……渡していたら、喜んでくれるって……っ! 皆の為に……な、なるような、事をしていたら……いつか受け入れてくれるって。一緒の食卓を囲めるんじゃないかって……そう思っていたのに……っ。やっぱり、だめだった……! わたしはいつも、ひとりで……っ、わたしの事、誰も……好きになってくれない……」


 こんなに泣いたのは、初めて自室で食事を取ったあの夜以来かもしれない。

 息が出来なくて、苦しい。泣き過ぎて気持ちが悪いし、顔がひりひりする。それに……なんだかすごく疲れてしまった。


 とくんとくんと、わたしとは違う心音が響く。

 顔を寄せているヴィクトル様の心臓の音が聞こえてくる。それに耳を澄ませていたら、ひどく眠たくなってしまった。


 瞼が落ちるままに任せると、意識が沈んでいった。深くて暗い、闇の中に。


「大丈夫。君はひとりじゃない」


 眠りに落ちる間際に聞こえた声は、ひどく甘やかな響きを持っていた。




 

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