18.結婚
好きなものが見つかりはじめて、選ぶ楽しさを知って。
古代魔法の解析も順調で、何もかもが上手くいっているような……そんな毎日を過ごしていたのに。
水を差されたような気分になったのは、わたしの手の中にある一通の手紙のせいだ。
寮に届いていたとヴィクトル様が何だか不機嫌そうに渡してきた手紙。その差出人は──わたしの父だった。
珍しい。いつもの手紙は母からなのに。
父が書いているのか代筆なのか。わたしには父の筆跡が分からないから判断は出来ないけれど、これが父の意思によって出された手紙というのは間違いない。
少しばかり不安に思いながら、わたしは自室に戻ってその手紙を開ける事にした。
手紙には時候の挨拶も、わたしを気遣う言葉もない。それは母からの手紙と一緒だった。
まるで業務命令のように、決定事項だけが綴られている。
わたしの結婚が決まったそうだ。
手紙によるとお相手は隣国で文官をしている男性らしい。仕事は続けていいが、それは隣国の研究所になる。給与の半分はブランシュ伯爵家に、残りの半分は夫となる文官に入るようになっていると書かれている。
結婚するのは来月。日取りは決まっているからそれまでに今の研究所を退職し、自分でお相手の元に行くようにと指示されていた。結婚の準備は伯爵家ではしないから、屋敷に戻らなくてもいいとの言葉で締められている。
わたしの意思を確認される事もなかった。物のやりとりをするように義務的で、わたしが拒むなんて考えてもいないんだろうな。
いつかは結婚するものだと思っていた。
家に残る事が出来ないのは分かっていた。きっと家の利になるような場所に嫁ぐのだと、そう理解していた。
でもこれは……あまりにもひどすぎる。
わたしは結局、お金を運ぶ道具でしかないのだと……そう、突きつけられているようで。
涙も出なかった。
自分の今後に絶望しか見出せなくて、もうどうしていいのか分からなかった。
***
──コンコンコン
何かが聞こえる。
──コンコンコン
ノックの音だ。
ドアへと目を向けると、部屋はすっかりと暗くなっていた。わたしが部屋に戻った時には、まだ陽が暮れ始めたところだったのに。
ベッドから立ち上がったわたしは、のろのろとドアへと向かった。
わたしの気配に気付いたらしい来訪者が、息を吐いたのが伝わってくる。……ヴィクトル様だ。
「アンジェリカ、大丈夫か?」
わたしを気遣うような、優しい声。
家族でさえわたしを大事にしてくれないのに、ただの上司で、この一か月ほどの短い付き合いでしかないヴィクトル様の方が優しくしてくれる。
それに気付いて、本当に自分が家族からはどうでもいいと思われているのだと、悲しくなった。
「大丈夫です。でもすみません……今日はもう、休ませてください」
「いや、だめだ。ここを開けてくれ」
強い声に肩が跳ねた。
拒む事を許されない、強い声。わたしは鍵を開けて、ゆっくりと扉を開いた。
廊下の明かりが眩しくて目を細める。
逆光になっているヴィクトル様の顔がよく見えなかったのも一瞬で、わたしは腕を引かれて廊下へと出されていた。
「お茶でも飲もう。ついておいで」
先程の強い声とは異なる、優しい声。それに異を唱える事も出来ず、腕を引かれるままにわたしはヴィクトル様と一緒に歩き出した。
やってきたサロンでヴィクトル様はわたしをソファーに座らせてくれる。そのままテーブル横にあるティーワゴンでお茶の準備をはじめるのを、わたしはぼんやり見つめていた。
茶器の音。ポットに注がれるお湯の音。紅茶の香り。
それがいつもより遠い所にあるような、そんな不思議な感覚がした。手を伸ばせば届く距離なのに、ひどく遠いような気がする。
「ほら」
差し出されたのはティーカップではなく、それよりも大きなマグカップ。
カップを覗くとミルクティーで満たされている。マグカップを両手で包むように持つと、指先からじんわりと温かくなって気持ちがいい。
わたしが一口飲んだのを確認して、ヴィクトル様は隣に腰を下ろした。
いつも飲むミルクティーより、ずっと甘い。お砂糖もミルクもいつもよりたっぷり入っている。飲みやすくて、美味しくて……先程までは遠かった世界が戻ってくるような気がした。
「……何があったか、話せるか?」
伯爵家からの手紙と共に自室に下がったから、その手紙が原因なのだとヴィクトル様は分かっているのだろう。
話していいのか、悩んでしまう。でも……研究所を離れるように指示されていたから、やめる事も伝えなくてはならない。
いや、でもわたしは……王命を受けている最中だ。それを優先するべきなのだけど、まずはヴィクトル様に相談しなくてはならない事だ。
「あの……父から、手紙が来まして」
「うん」
「それには……わたしの結婚が決まったと」
「は?」
わたしの言葉に、先程までの優しい相槌は返ってこなかった。
地の底を這うような低音に身が竦んでしまう。マグカップを持つ手にぎゅっと力が入った。
「ああ、いや……悪い。アンジェリカに怒っているわけじゃないんだ。それで……結婚が決まったって? 相手は?」
わたしは持っていたはずの手紙を探した。ずっと手にしていたはずなのに、いまわたしの手にあるのはマグカップだ。きょろきょろと周囲に目を向けると、わたしの座るソファーの端に皺になった手紙が落ちていた。
それを拾ってヴィクトル様に差し出すと、眉間に深く皺を刻みながら受け取ってくれた。「中を見ても?」と聞いてくれるから、それに頷く。
「これなんですが……隣国で文官をしている方だそうです。あちらの研究所に勤める事になるので、今の研究所は辞めるようにと……」
手紙を確認したヴィクトル様の顔から表情が抜けていく。
これだけの美貌で無表情になられると、怒った顔をしているよりひどく怖い。いつもにこやかに笑ってくれているから、余計にそう思うのかもしれないけれど。
手紙を読み終えたヴィクトル様は、深くて長い溜息をついた。
その溜息は部屋の温度を急速に下げていくようで、わたしは体を震わせる。ミルクティーでも間に合わないくらいに、手が冷えていった。
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