21.好きなものも、食べたいものも
覚醒は唐突に訪れた。はっと目を開けると、薄暗い部屋の中。静かな部屋に、秒針が時を刻む音だけが聞こえている。
勢いよく体を起こして周囲に目を向けると、わたしが借りている部屋だった。時計を見ると、まだ夜明け前。厚地のカーテンは外の様子をしっかりと遮っているけれど、もう空は白み始めているだろう。
やってしまった。
子どものように泣き喚いてヴィクトル様に抱き着いて……わたしはそのまま眠ってしまったらしい。
あんな風に感情を露わにするのも、泣いてしまうのも初めてだった。誰にも零せない思いはひとりで抱えるしかなかったからだ。
抱えて押さえ込んでいたから、あんな風に爆発してしまったのだろうか。どちらにせよ……迷惑をお掛けしてしまった事に変わりない。
それでも感情を発露したおかげか、気持ちが少し楽になっている。あれだけの絶望に塗れていたのに、いまは落ち着きを取り戻していた。
それはきっと、わたしがこの国に残る事が出来るとヴィクトル様が言ってくれたからだろう。父は面白く思わないだろうけれど、わたしはこの国を離れたくない。
そんなわたしの気持ちを、父が理解してくれるといいのだけど……それは希望的観測がすぎるかもしれない。
皺になってしまった制服に溜息をついて、ベッドから下りる。まずはお風呂……と浴室へ向かう途中、テーブルの上にお皿がある事に気付いた。ガラスドームをよけるとサンドイッチがお皿に用意されている。誰が作ってくれたかなんて、言うまでもない。
ぐぅ、と鳴ってしまったお腹に苦笑が漏れた。
サンドイッチを食べ終わると、また眠くなってきてしまう。でもお風呂に入って、目元に治癒魔法をかけなくてはいけない。
きっと目が腫れてひどい事になっているだろうと思ったのに、浴室で見た鏡の中の自分はすっきりした顔をしていた。
きっとヴィクトル様が治癒魔法を掛けてくれたのだろう。
痛みも怠さもないから有難いけれど……昨晩だけでどれだけの迷惑を積み重ねてしまったのか。先程よりも深くなった溜息が、浴槽から立ち上る湯気に消えていった。
***
「ご迷惑をお掛けしました。軽食まで用意して下さって、何から何まですみません」
朝食の席で謝ると、ヴィクトル様は不思議そうに目を瞬いてから笑ってくれた。いつもの穏やかで、優しい笑み。
「気にしないで……って言っても無理だろうけど。迷惑とは思ってないとだけ伝えておくな」
「……ありがとうございます」
「アンジェリカの婚約の件は、スティーグ殿下に伝えさせて貰った。国外に出る事も、婚約も止めて貰えるから安心してほしい」
「すみません、助かります」
ほっとしながらナイフとフォークを手にして、朝食のガレットに向き合った。
サーモンと目玉焼きを包むよう、四角い形に折り畳まれた生地にナイフを入れる。切り分けた生地で小さく切ったサーモンを包み、口に入れる。スモークされているのかサーモンの香りが良いし、生地はチーズの塩気がある。美味しい。
「美味しい……」
「口に合って良かった」
「生地がすごくもちもちしていますね」
「今日のはうまく焼けたと思うんだ。気に入った?」
「とっても」
「それならまた作ろう」
嬉しそうにヴィクトル様が笑うから、わたしもつられて笑ってしまった。料理の話をしている時のヴィクトル様は、いつもの穏やかな笑みじゃなくて、少しだけ幼く笑う気がする。
ああ、まただ。胸の奥がちりちりする。前にも感じたこれは、何なんだろう。
前よりもそれが強くなって、そう……まるで、疼きのような。
「……アンジェリカ?」
感覚に集中しすぎて、ぼうっとしているように見えたようだ。
心配そうにこちらを見つめるヴィクトル様に、何でもないと笑みを見せる。ヴィクトル様に相談したら、この感覚の正体も分かるのかもしれないけれど……なんだかこれは口にはしていけないような気がした。
「卵を崩すタイミングに悩んでいました」
「ふは、失敗したらもう一枚焼くけど?」
「二枚目はさすがにおなかいっぱいで食べられなさそうですから。絶妙なタイミングを狙わないと」
フォークで卵の黄身を崩し、生地を絡めて口に運ぶ。うん、美味しい。
カトラリーを一度置いてカップを取った。まだ湯気のたつそれには、ミルクティーが満たされている。飲んでみると昨日ほどの甘さはなく、いつもわたしが飲んでいるような味だった。
「今日の午前は会議があるから研究所に行かなくてはいけないんだ。一人で大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「昼には戻るけど、何か欲しいものとかある?」
午前中は研究所、午後からはわたしと一緒に解析に勤しんでくれるヴィクトル様は、お屋敷を出る際にはいつもこうして聞いてくれる。
お願いするのは女神光教の資料が多いのだけど、今の作業で必要なものは思い浮かばなかった。
「特には……」
「食べたいものとかない? 買ってくるけど」
「それも大丈夫です。ヴィクトル様が美味しいものを作って下さるので」
このお仕事が終わって寮に戻ったら、食事で困ってしまうかもしれない。それくらいに贅沢な舌になってしまった。
そんな事を考えながら付け合わせのサラダからトマトをフォークに刺すと、ヴィクトル様が口元を手で押さえて俯いてしまっていた。
「……君は、本当に」
食事面で頼りすぎてしまったかと申し訳なく思うも、顔を上げたヴィクトル様が笑ってくれているからほっとしてしまった。
「作るよ、何でも。君の好きなものも、食べたいものも」
「頼り過ぎだと思ったら言ってくださいね? ヴィクトル様もお忙しいのに、全部甘えてしまっていますから」
「嬉しいけどね、俺は」
「わたしは携帯食料でも……」
「うちでそんなものを食べるのは許しません」
「はい……」
時々、料理を手伝わせて貰っているけれど、一人で作れるようになるまではまだまだ掛かりそうだ。それでも楽しいと思えるのは、ヴィクトル様の教え方が良いのと、わたしが失敗したって笑ってくれるからだろう。
「アンジェリカは、解析の続きをする?」
「そうですね……行き詰まってしまっているので、昨日の魔法式からは離れようかと思っています」
「昼からは手伝うし、無理をしないようにな」
「ありがとうございます」
行き詰まっている魔法式を思うと、早く地下に行きたくなってしまう。古代文字や魔法式に没頭したくて、このお屋敷に来る前は食事に時間を取らなくなったんだっけ。
でもいまは違う。
ヴィクトル様と一緒に食卓を囲むのが楽しいから、この時間も大事にしたいと思うようになった。
ミルクティーを一口飲み、自分の変化に少し笑う。でもそれは、決して嫌なものではなかった。
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