40.氷が溶けていくように

 翌日、ヴィクトルは休暇を取って実家である公爵家へと帰っていた。

 アンジェリカは屋敷にいて、今日は一日中、本を読んで過ごすらしい。出掛ける前に部屋を覗くと、朝から本を読んでいるのに、朝よりも本が積み上がっている不思議な現象に笑みが零れてしまった。


 不本意な想いの告げ方になってしまったが、アンジェリカがプロポーズを受け入れてくれた事にヴィクトルは内心で安堵していた。

 好かれていたとは思っていたが、結婚に頷いてくれるかはまた別だ。彼女が断る事の出来ないようにしてから……と言ったのは、嘘ではなかった。


 公爵家のサロンでそんな事を考えていると、扉が開いて兄が入ってくる。

 向かい合うソファーに座った兄の前にも紅茶がおかれ、それを用意した侍女は綺麗な一例をしてから部屋を後にした。

 室内にいるのはヴィクトルと兄であるオスヴァルトだけだ。


「兄上、時間を取って下さってありがとうございます」

「構わないよ。もっと頻繁に帰ってきたらいいのに」

「何かと忙しいもので」

「その忙しい中でも帰ってきたという事は、私に何か出来る事があるのかな?」


 察しのいい兄の笑みに、ヴィクトルは眉を寄せる。

 紅茶のカップに手を伸ばし、それを一口飲んでからヴィクトルは口を開いた。


「アンジェリカと結婚するので、報告にあがりました」

「結婚?」

「はい。承認をいただきたいのと……アンジェリカを、分家の養子にしたいのです」

「訳ありだな」

「もうご存知なのでは?」


 ヴィクトルの問いにオスヴァルトは何も言わず、ただ微笑んでいるだけだった。


 オスヴァルトは既にアンジェリカの事を調べているのだろうと、ヴィクトルは分かっていた。

 自分が初めて夜会でエスコートをした女性だ。公爵家を背負う者として兄が調べていないわけがない。きっと自分が同じ立場でもそうしただろう。


「アンジェリカは伯爵家に搾取されています」


 アンジェリカが今までどう過ごしてきたのかを、ヴィクトルはオスヴァルトに語った。

 どれだけひどい扱いをされても、それでも彼女が家族を諦められなかった過去の話を。


「次女に金をかけていると思ったら、その出所はアンジェリカ嬢か。ひどい話だな」

「アンジェリカは伯爵家と縁を切りたいそうですし、俺もそうした方がいいと思っています。だから──」

「いいよ」


 さらりと快諾されて、ヴィクトルは言葉を失ってしまった。

 自分がどれだけアンジェリカを求めているのか、アンジェリカが素晴らしい女性だという事も含めて、兄に訴えかけていくつもりでいたのだ。


 それを口にする前に、オスヴァルトはアンジェリカを庇護下に入れる事を決めてくれた。

 驚きと同時に、感謝の気持ちが胸を渦巻く。


「……ありがとうございます」

「ヴィクトルが選んだ女性だからね、反対する理由もないよ。でも……もう少しアンジェリカ嬢の事を教えてくれる? ヴィクトルから見たアンジェリカ嬢の事を」


 揶揄われているのかと思ったヴィクトルは、また少し眉を寄せる。

 しかしオスヴァルトの表情からそういった感情は読み取れず、そうなると自分の態度があまりにも子どもっぽいと気付いてしまう。


「……俺の料理を美味しいって食べてくれる人ですよ。好きな事に真っ直ぐで、可愛い人です。彼女とこれからも一緒に居たくて、甘やかして、守りたいと思いました」


 話しながら思い浮かぶのはアンジェリカの姿だ。

 アンジェリカの可愛いところを教えたい気持ちと、自分だけの秘密にしておきたい気持ちがせめぎ合う。だから少しだけ零す事にした。


「なんだ、べた惚れじゃないか」

「じゃないと結婚しようと思いませんよ」


 確かに、と笑う兄の姿に幼い時の記憶が思い出される。

 自分の作ったマドレーヌを美味しいと言ってくれた兄と、今の兄の姿が重なった。


 そうだ、兄は何も変わっていない。

 昔からずっと、優しくてかっこいい、自慢の兄だった。


 そんな兄にコンプレックスを拗らせて、距離を置いてしまったのは自分だ。変わったのは自分だったのだと、ヴィクトルはそれを認める事が出来た。


「アンジェリカ嬢の養子先については私に任せてくれていい。ブランシュ伯爵家が何を言っても、手出しはさせないようにするから安心していいよ」

「ありがとうございます」


 頼もしい兄の姿に、自分の中で燻っていた反抗心が消えていくのが分かった。

 結局、自分は兄の事が好きなのだ。


「……兄さん・・・

「ん?」


 思わず昔のような呼び方をしてしまう。

 そんなヴィクトルにオスヴァルトは表情を変える事もなかった。ただいつものように、優しく返事をしてくれる。


「昔、俺が初めてマドレーヌを焼いた時の事、覚えてる?」

「覚えてるよ。美味かったし、嬉しかった」

「兄さんが美味いって褒めてくれたから、それで料理がもっと好きになったんだ。あの時、俺を否定しないでくれてありがとう」

「礼を言われる事じゃないさ。お前が好きな事をしているのは、私にとっても嬉しい事だからね」


 素直に気持ちを吐露するのが恥ずかしくなってしまったのは、いつだったろうか。

 昔、ただ純粋に兄の後を追いかけていた時の事を思い出していた。いつだって眩しい兄に追いつきたかった。別に兄は自分を置いていったりしなかったのに。


「……反抗していてごめん。ずっと大好きだよ」


 ずっと伝えたかった思いを口にして、ヴィクトルの視界がじんわりと滲む。この年になって兄の前で泣くとは思っていなかったけれど、胸のつかえを流してくれるような涙だった。


 ヴィクトルの言葉にオスヴァルトは目を瞬いた。驚いた様子も一瞬で、すぐに嬉しそうに破顔する。


「知ってるよ。可愛い弟が多少反抗したって、嫌いになれるわけないだろ。私はお前に、兄にしてもらったんだ。私の世界を広げてくれたのは、間違いなくヴィクトルだよ」


 そう言って笑う兄の目元にも涙が滲んでいて、ヴィクトルは泣きながら笑った。

 今までよりもずっと、兄との距離が近付いた気がする。それはまだ少し恥ずかしくても、もう離れようとは思えなかった。


「今度はアンジェリカも連れてくる。何か作ってくるけど……何が食べたい?」

「そうだな……マドレーヌがいいな」

「はは、とびきり美味いマドレーヌを焼いてくるよ」


 今はもう、マドレーヌも綺麗に焼ける。

 きっと自分の好物にマドレーヌも仲間入りするだろう。ヴィクトルはそんな事を想いながら、目元の涙をそっと拭った。


 ***


 公爵家から屋敷へと転移したヴィクトルは、アンジェリカの部屋を訪ねた。

 快く迎え入れてくれるアンジェリカは、充実した時間を過ごせたらしく、ピンクの瞳がきらきらと輝いている。


「おかえりなさい」

「……ただいま」


 彼女がそう言ってくれると、胸の奥が苦しくなる。自分一人で暮らしていた時には、聞けなかった言葉。でもそれをアンジェリカが言ってくれるから特別なのだと、ヴィクトルは分かっている。


 ソファーを勧めるアンジェリカの腕を引き、ヴィクトルはその華奢な体を抱き締めた。

 肩口に顔を埋めて深呼吸をしていると、おずおずとヴィクトルの背中に両腕が回る。


「何かありましたか?」

「いや、何でもないよ」


 兄に対して燻らせていた感情が昇華されたら、何だか無性にアンジェリカを抱き締めたくて仕方なかったのだ。

 その気持ちが何なのか、ヴィクトルもよく分からないでいる。


「……オスヴァルト様と何かあったのでは? ヴィクトル様のお顔がいつもと違いますもの」

「違う?」


 抱き締める腕の力はそのままに、アンジェリカの肩から顔を離してヴィクトルは首を傾げた。

 アンジェリカは少し顔を赤らめながら頷いている。


「いつもより少し幼い、弟の顔をしています」

「……そうかな」


 一体自分はどんな顔をしているのか。鏡で見たい気持ちもあるが、やめておいた方がよさそうだ。

 宥めるようにアンジェリカがヴィクトルの背中を撫でる。あまりにも優しい手つきに、胸の奥が締め付けられた。


 アンジェリカはまだ頬に朱を残しながら、優しく微笑んでいる。

 いつもより大人びた、姉の顔をしていた。

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