39.頼って

 味があんまり分からなくなってしまった食事を終えたけど、胸がいっぱいでアップルパイは食べられなかった。


 でもやっぱり食べたいし、もう少し時間を置いたら喉を通るかもしれない。

 そう思って、移動した先のサロンにもわたしはアップルパイを持ってきていた。


「本当にお気に入りだな」

「だって、好きなものですから」

「嬉しいけど妬くぞ」

「……アップルパイに? ヴィクトル様が作ったのに?」

「俺は心が狭いんだ」


 そんな軽口を交わしながらわたしはソファーに座り、ヴィクトル様はティーワゴンの前でお茶の準備をしてくれる。ヴィクトル様が指を振ると氷が生み出され、きらきらと輝く氷がグラスを満たしていった。

 まだ熱い紅茶をグラスに注ぐと氷の割れる音が響く。一気に冷えたグラスの表面がうっすらと曇る。


 ナプキンで濡れた表面を拭ってから、ヴィクトル様はわたしの前にグラスを置いてくれた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 両手で背の高いグラスを持ち、アイスティーを一口飲む。シロップのおかげで少し甘さはあるけれど、すっきりとする苦味も感じられた。そのおかげで先程までのふわふわした気持ちが少し落ち着いていくような気がした。


 ヴィクトル様も同じグラスを手にして、わたしの隣に座る。

 肩が触れ合うほどに近い距離。今までだってこういう距離はあったけれど、何だか今はドキドキしてしまう。


「……緊張した顔をしてるな」


 紡がれた声に顔を上げると、ヴィクトル様が笑みを浮かべていた。いつもより悪戯っぽく見えるその表情に、また顔に熱が集まるのが分かった。


「なんだか、落ち着かなくて。どういう顔をしていいのか分からないといいますか……」

「今までと何も変わらないよって、言ってあげたいところだけど。距離だってまだそこまで詰めてはいないしな?」

「……揶揄ってます?」

「否定はしない。可愛い反応をするアンジェリカが悪い」

「理不尽です」


 肩を竦めてまたグラスに口をつける。隣から低い笑い声が聞こえてくるけれど、そんな声にもまた胸が高鳴るのだから、どうしていいか分からない。


 グラスを両手で持ちながら、わたしはこれからの事を考えていた。

 ヴィクトル様と家族になる。でも……家の事が片付いていない状態で結婚をするわけにはいかない。

 エドラはヴィクトル様を諦めないだろうし、公爵家と縁続きになるとなれば、きっと……わたしの居場所をエドラと変わってあげるようにと両親には言われてしまうだろう。


 どうしたら、何の憂いもなくヴィクトル様と家族になれるのか。

 何をすればいいのかと考えて、ふと思いついた事があった。


「ヴィクトル様、あの……褒賞の件なんですが」

「随分と唐突だな。欲しいものが思い浮かんだ?」


 ヴィクトル様は笑いながら、わたしの肩を抱き寄せてくれる。体を預けてヴィクトル様の肩に頭を預けるようにして寄り添うと、ヴィクトル様のコロンが香った。


「わたし、伯爵家から籍を抜きたいです。それを褒賞にしてもらえないかと思って……」


 水滴の浮かびだしたグラスが、わたしの指を濡らしていく。

 ひんやりと冷たいそれが心地よかった。


「精霊王様が目覚めて、それにわたしも関わっていると知ったら……父はきっと、わたしをいいように使おうとするでしょう。それに、ヴィクトル様と結婚するとなれば、その位置をエドラに譲るようにと言いかねません。だから、今のうちに……伯爵家との繋がりを切りたいんです」

「うん」

「でも、そうしたらわたし……平民になります。それでもヴィクトル様は、わたしと結婚したいと思ってくれますか?」

「俺の気持ちが変わらないって、分かってるでしょ。伯爵家から籍を抜くっていうのはいい考えだし、俺もそうした方がいいんじゃないかと思ってた」


 ヴィクトル様の言葉にほっと胸を撫で下ろす。きっとそう言って下さるとは思っていたけれど、それでもヴィクトル様の口から聞けると安心する。


 わたしの手からグラスを取ったヴィクトル様は、それをテーブルへと置いた。

 空いたその手で、わたしの顔横の髪を指に絡めては解く事を繰り返している。


「公爵家の分家に養女として迎え入れてもらうようにする。身分はどうでもいいというのは本音だけど、公爵家の傘の中に入っていた方が君を守りやすいのも事実だから。うちの分家ならブランシュ伯爵家も手を出せないだろ」

「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてしまってすみません」

「迷惑だなんて思った事もなかったよ。だから褒章はまた別のものを考えて」


 その言葉に頷くけれど、欲しいものを考えても思い浮かばない。

 それはありがたい事で、贅沢な悩みだというのも分かっている。


 でもこういった事に縁がなかったから、褒賞といわれても思い浮かばないのだ。

 欲しいものを願えばいいのだろうけれど、それが難しい。


「褒賞ってたとえばどんなものがあるんでしょう」

「領地だったり、金一封だったり、昇進だったり? 英雄ともなれば王家との繋がりを求める事も出来るし、今回の君の場合はそれに当てはまる程の貢献になる。でも俺がいるからだめ」

「……ちょっと手加減してもらえますか」

「何のことだか」


 大袈裟に肩を竦めるその仕草が、何だか可愛らしいと思った。

 わたしの事を本当に想ってくれているのだと嬉しくなる。その気持ちのままに、髪に触れるヴィクトル様の手を取って指を絡めた。


「わたしの場合、昇進となったら……」

「特級研究員だろうな。役職もつけられるけど、それは欲しくないだろ? 特級なら禁書も自由に閲覧できるぞ。女神の祝福の件もあるし、女神光教が所有している古文書も閲覧可能になるだろうな」

「えっ、じゃあそれがいいです! わたし特級になりたいです!」


 王家所有の図書室には貴重な古文書をはじめとした様々な文献があるけれど、禁書に指定されているそれを読むのには様々な手続きを踏まなければならない。

 申請が却下されるのなんて日常茶飯事だ。それを読めるだけではなく、女神光教の古文書も読めるなんて、そんな幸せな事があっていいのだろうか。


 しかも特級ともなれば研究予算も大幅に上がるし、今の立場よりもずっと研究がしやすくなる。


 勢いよく褒賞を決めたわたしの様子に、ヴィクトル様がおかしそうに笑い声をあげる。

 確かに今の勢いは、淑女としては減点かもしれないけれど。


「スティーグ殿下に伝えておく。足りないようなら俺と殿下で決めて構わないか?」

「お任せしますが……特級だけで充分ですよ」

「君の功績に対してそれだけじゃ足りないだろ。国にも女神光教にも面子ってもんがあるのさ」


 ヴィクトル様が言うのなら、そういうものなのだろう。

 そういう事は難しいから、お任せするのが一番だ。


「悪いようにはしないから。だからこれからも、俺の事を頼ってくれたら嬉しい」


 絡めた指をヴィクトル様がぎゅっと握る。

 わたしを見つめる眼差しは、今までよりもずっと甘さを含んでいる。溺れそうに深い瞳を見つめながら、絡む指にぎゅっと力を込めた。

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