38.心も何もかも
お互い何も言えないけれど、目を離す事も出来ない。
顔の熱は全然引いてくれないし、それはヴィクトル様もきっと同じ。
震えるような息を吐き出すと、ヴィクトル様が勢いよくワイングラスを手に取った。いつもよりも乱暴に見えるその仕草に目を瞬くと、一気に中身を飲み干してしまう。
グラスを置く仕草も荒い。
「……ヴィクトル様?」
ヴィクトル様の顔はまだ赤いままだ。
いつもとあまりにも違うその姿に、わたしの方が落ち着いてくる。
きっと、何か間違ってしまったのだろう。だからあんなに慌てているのだ。もしかしたらもうとっくに、酔いが回ってしまっていたのかもしれない。
勘違いをしてはいけない。
そう思ったわたしは大丈夫だと微笑んで見せた。
「ヴィクトル様、あの──」
「いや待て、アンジェリカ。ちょっと俺に話をさせてほしい。君が今考えている事は違うから」
「えっ」
そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。
ちゃんと弁えているつもりなんだけど。大丈夫だって、変な事は考えていないって、そう伝えなくちゃ。
そう思ったわたしが口を開くよりも早く、ヴィクトル様が席を立つ。テーブルをぐるりと回ってわたしの前に跪くと、優しく両手を握ってくれた。
「思わず口から漏れてしまったけど、さっきの言葉は本当だから。俺と家族になってほしい」
「……家族」
「そう。今みたいな日々をアンジェリカと過ごしていきたいんだ。君の頑張りを一番近くで見ていたい。褒めたいし、甘やかしたい。泣きたい時には抱き締めたいし、辛い時にはそれを分かち合いたい」
ヴィクトル様と家族になったら、きっと……幼い頃のわたしが欲しかった日々が手に入るのだろう。
ううん、このお屋敷にお世話になって、もう過去の寂しさは埋められていると思う。ヴィクトル様と食卓を囲んで、美味しい時間を共に過ごして、わたしの世界を広げて貰った。
この日々が続くのなら、それはきっと……家族というものなのだろう。
でも、どうしてヴィクトル様はわたしと家族になりたいと、そう思ってくれるのか。
「だめだな、うまく伝えられない。本当はもっと色々な事が片付いて、君が落ち着いて、アンジェリカが自分の未来を考えられるようになってから伝えようと思っていたんだけど。あー……これ以上の失点をしないよう、まだかっこつけてるみたいだ」
「……ヴィクトル様はいつだってかっこいいですけど」
「ありがとう。でもこんな勢い任せで伝えるつもりはなかった。出来るならもう少し外堀を埋めるなり、君が断れないようにしてから伝えるつもりだったんだけど」
「それは……わたしに言っても大丈夫なんでしょうか」
「もうこうなったら自棄だろ。君の前ではいつだって、何でも出来るかっこいい男で居たかったんだよ」
たぶん、いや……間違いなく酔っているのだろう。
こんなに余裕をなくしているようなヴィクトル様は初めて見た。それにいつもより饒舌だし、随分と早口だ。
「アンジェリカ、俺の奥さんになって。ずっとこの屋敷で暮らしてよ」
「えぇと……あの、家族ってそういう意味の家族ですか」
「それ以外に何がある?」
わたしの手をぎゅっと握り締めながら、ヴィクトル様がわたしの顔を見上げてくる。
何だか拗ねているようなその表情が、なんていうか……可愛く見えてしまって。わたしの顔が一気に赤くなったのが分かった。
先程までは、ヴィクトル様があまりにも酔っているものだから、その言葉もどこか他人事のように感じていたのだ。
でも、可愛いと思ってしまったらもうだめだった。ヴィクトル様の言葉が強い雨のようにわたしの心に染み入ってくる。
ヴィクトル様は……わたしに、奥さんになってと言った。
それは、そういう意味でわたしを求めてくれているのか。期待してしまっていいのだろうか。
「ヴィクトル様は……もしかして、わたしの事を想ってくれているのですか」
「そう」
「そんな素振りなかった……ような? あれ、ちょっと待ってください」
お砂糖みたいに甘く笑いかけてくれるのも、蕩けるくらいに優しい声で語り掛けてくれるのも。もしかしたら、そうだったのか。
「最初は放っておけないって、庇護欲みたいなもんだって思ってたんだけど。でも古代文字に向き合う真剣な眼差しとか、俺の作った料理を美味しそうに食べるところとか、優しくてお人好しなところも可愛くて大事にしたいと思った。君がこの屋敷を出て、君のいない日常を過ごすなんて無理だと思うくらいに、アンジェリカの事が好きだよ」
心臓がおかしくなる。
ばくばくと騒がしくて、今にも口から飛び出してしまうんじゃないだろうか。
顔も、体も、触れられる手もひどく熱い。
「だから、これからも一緒に居よう。君の心も何もかも、俺に守らせて」
あまりにも真っ直ぐな言葉を紡がれて、頷く以外に出来なかった。
こんな夢のような事があっていいんだろうか。
好きな人が、わたしを想ってくれる。そんな幸せを感じる事が出来るなんて、思ってもいなかった。
胸の奥で溢れる恋しい気持ちが、涙となって零れ落ちる。
わたしの涙を指で掬ったヴィクトル様が、とびきり甘い顔して笑うから。涙はまだ止まらなさそう。
「アンジェリカ、俺の事が好きだろ?」
「……好きです」
そう答えると、ヴィクトル様は嬉しそうに笑った。あまりにも眩いその笑みに、わたしもつられて笑ってしまった。
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