47.決別の時

 わたしの前に立った父は、眉間に皺を寄せていて、不機嫌さを隠そうともしていない。

 ここがどこで、今は何をしているところなのか、父は分かっているのだろうか。


「アンジェリカがブランシュ伯爵家を抜けるなんて、私は承知していません! アンジェリカは私の大切な娘であり、婚約だって初めて聞きました! 父であり、伯爵家の当主である私に何も話がないのはおかしいではありませんか!」


 身振り手振りを大きくしながら、父が陛下に訴えかける。

 大きな声に少し身を強張らせると、わたしの腰を抱くヴィクトル様の腕に力が籠もった。

 逆隣に立っているレダ姉様が、わたしの手をそっと握ってくれる。わたしは守られているのだと、何だかひどく安心してしまった。


 そう、恐れる事など何もないのだ。


「ブランシュ伯爵。アンジェリカを大切な娘という割には、彼女に何もしていないのではないですか」


 ヴィクトル様の声が冷たい。圧を感じさせるような低音に、広間の温度が下がったような気さえしてくる。


「失礼な! 娘として大事に育ててきた!」

「そうでしょうか。アンジェリカは学院に十三歳で入学してから、魔導研究所に就職した今までもずっと寮で暮らしています。長期休みでアンジェリカは伯爵家に帰る事がありましたか? 彼女がどんな勉強をしていたのか、今はどんな研究をしていたのか……あなたは知っていますか」


 淡々と問いかけるヴィクトル様の声には、隠し切れない怒りが宿っている。

 声を荒げるわけでもなく、ただ静かに言葉を紡いでいるのに、背筋がひんやりとするような恐ろしさを感じさせる。


 父も母も、ヴィクトル様の問いに答えられなかった。

 それもそうだろう。ゆっくり話をする機会なんて、今まで訪れる事はなかったから。


「それは……。いや、それは今はどうでもいい。アンジェリカが伯爵家を抜けている事も、貴殿との婚約が調ったというのも私は認めんぞ!」

「あなたが認めなくても、国王陛下が認めて下さっています。異議を唱えるおつもりですか」

「ぐっ……!」


 自分が劣勢な事に気付いたのだろう父の顔が怒りで真っ赤になっていく。

 彷徨わせていた視線がわたしで止まる。わたしへと標的を変えたのか、父がきつくわたしの事を睨みつけた。


「アンジェリカ! 我儘もいい加減にするんだ!」

「我儘とは何の事でしょう」

「伯爵家を抜けるなど、我儘の極みだろうが。何が不満だ!」

「不満しかありませんでしたが」


 不満がないと思われていたなら、それはそれでどうかしている。心の声が言葉となって漏れてしまうと、わたしの手を握っているレダ姉さまが小さく吹き出した。デルベルクのお母様がレダ姉様の事を肘で突いているのが見える。


「そう、不満が出ないわけがないんだ。ブランシュ伯爵、あなた達はアンジェリカに対して何もしてこなかった。デビュタントの時も最低限の支度しかしなかったという証言もあります。彼女の話を聞くでもなく、一緒に食卓を囲む事もしない。それは家族といえるのでしょうか」

「不自由ない暮らしをさせていた!」

「それはそうかもしれません。でも、最低限の衣食住を与えていれば良いというわけではないでしょう」


 明らかになるブランシュ伯爵家の実情に、周囲の人々がざわめき出す。

 冷ややかな視線を向けられている事に気付いたのか、母は扇で顔を隠しているし、エドラは俯いている。


「アンジェリカが研究所に就職して……あなた達はアンジェリカの稼ぐ給金をあてにした。彼女の給料のほとんどがブランシュ伯爵家に送られています。それだけじゃない。金の無心もしていた。アンジェリカがブランシュ伯爵家に送金をしている記録は全て残っています」

「それは、その……アンジェリカからの恩返しだ。育てた娘から少し援助をして貰ったって構わないだろう」

「ではエドラ嬢からも同じように搾取するのですよね? 同じ娘なんですから」

「エドラはまだ学生で……!」

「ではエドラ嬢も寮に入っているのですか。アンジェリカと同じように長期休暇でも屋敷に帰る事は許されず、学費と寮費だけを支払って、その他にかかる費用は一切支払っていないのですよね?」


 ヴィクトル様の言葉に、父はもう何も言えないようだった。

 ぐっと拳を握り締め、恨めしささえ感じる表情でわたしとヴィクトル様を睨んでいる。


 まだ引き下がらないのだろうか。もう覆る事はないのだけど。

 わたしは小さく息を吸ってから、口を開いた。


 決別するのだ。

 悲しかった過去も、惨めだった過去も、全て。


「ブランシュ伯爵、伯爵夫人。わたしの好きなものを知っていますか?」


 わたしの問いに二人は虚をつかれたように、目を丸くしている。

 答えようとしているのか口を開くけれど、思い浮かばないみたいだ。

 好きなものが何かなんて、彼らは知らない。それを分かっていて、わたしは聞いたのだ。


「好きなものも、嫌いなものも、わたしは分かりませんでした。わたしは一方的に与えられるばかりだったから。食事も、服も、本も、何が好きかなんて聞かれた事がなかったのです。与えられるものを受け取る以外に出来なくて、自分が何を好きなのかも分からなかったのです」


 父も母も、口籠っている。

 周囲からの視線は冷たくなるばかりだ。居心地も悪いのか、父は胸ポケットからチーフを抜いてそれで汗を拭っている。


「でもわたしも、あなた達の好きなものを知らないのだからお互い様です。わたし達は好きなものも嫌いなものも、分かち合うような事が出来なかった。そんな関係を築く事も出来なかった。……わたしはあなた達の家族になれなかったのです。だから、もう終わりにしましょう。わたしはわたしを認めてくれる人達と家族になって、幸せになりたいのです」


 泣かないと決めていたのに。

 胸の奥で渦巻く感情が視界を滲ませる。泣きたくないのに溢れる涙が、頬を一筋伝っていった。


「これからはアンジェリカを大事にする!」

「そうよ! あなたは私の大事な娘よ!」


 焦ったような二人の様子に、苦笑いが漏れてしまった。

 わたしの腰を抱いたままのヴィクトル様が盛大な舌打ちを響かせた。


「……どうして生んでしまったのかって、仰っていたじゃないですか」

「それは……違うのよ。違うの、そんな事を思っていないのよ」

「アンジェリカ、もう一度話し合おう。お前の望みは全て叶えてやるから」

「わたしの功績が惜しいだけでしょう。もうわたしはあなた達と家族になる事を諦めたのです」


 静まり返った広間に、母の啜り泣く声が聞こえる。

 それは何の涙なのか。もうそれを問いかける事も、理解しようとすることもしたくなかった。


「ブランシュ伯爵、もう諦めよ。そなた達への沙汰は追って知らせる事とする」


 見守って下さっていた国王陛下の声も固い。

 スティーグ殿下が片手を挙げると、控えていた騎士達が集まってくる。


 騎士達が両親に魔封じの枷をしているのが見えた。二人は項垂れて、抵抗もしていない。周囲からの非難の声が大きくなる。それが届いているのか、二人は身を小さくして俯いていた。

 そのまま二人は騎士達に連れられて、広間を後にする。


 そう、連れていかれたのは二人。エドラはその場に残っている。

 不安げに揺れる赤い瞳が、わたしを捉えた。


 駆け寄ってきたエドラが抱き着いたのは──わたしではなく、ヴィクトル様だった。

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