50.好きなもの
少し開けておいた窓から、強い風が吹き込んでくる。
積み重ねていた紙の束が机の上から崩れ落ちた音に、わたしは肩を跳ねさせた。
「あー……またやっちゃった」
窓を閉めるか、書類を積まなければいいだけの話なんだけど、この癖はそう簡単には直らないらしい。
『にゃー』
紙束の周りには精霊達が集まっている。集めようとしているのか、小さな前足で紙を掻いてくれている。それが何だか可愛らしくて、一匹を抱き上げてから肩に乗せた。機嫌よくごろごろと喉を鳴らす様子は、どこから見ても猫だ。
その背中に虹色の羽根がなければ、子猫といっても通るだろう。
肩に乗せたのをきっかけに、他の精霊達もわたしの頭や背中に張り付いてくる。逆の肩にも精霊が乗っている。重さを感じないからいいのだけど、周りでごろごろ鳴かれるのはちょっと賑やかだ。
わたしは紙の束を集めてから窓を閉じた。魔導具を起動させると、冷たい風が部屋に行き渡るようにシーリングファンが動き出す。
涼やかなその風が気持ちいい。同意するように精霊達がまた、にゃーと鳴いた。
ここはわたしの研究室。
特級研究員となったわたしには、わたしだけの研究室が与えられている。
古文書や書類を処理する為の大きな机の他、続き間には実験室もある。机の前には応接セットが用意されて、今までの研究室よりも広くて過ごしやすい場所だった。
窓の向こうには青い空が広がっている。夏真っ盛りの陽射しはじりじりと身を焦がすようだ。女神様が降臨なさって、精霊王様が目覚めて、精霊達も張り切っているらしい。
さて、研究に戻ろう……と机に足を向けたところで、研究所内に鐘の音が響いた。
お昼休みを告げるその音につられたのか、お腹がぐぅと鳴る。
お昼を食べなくちゃ。お腹もすいた。
書類を机の上に置いてから、なんとなく机の引き出しを開いてみる。前は携帯食料がぎっしりと詰められていたその場所には、今は資料や魔導具以外は入っていない。
──コンコン
ノックの音が響く。はい、と返事をすると扉が開いた。
「お待たせ。昼食を持って──。……すごい光景だな」
入室してきたのはヴィクトル様だ。その手には大きなバスケットが握られている。
わたしが仕事に復帰してからは、ヴィクトル様が毎日昼食を用意してくれているのだ。ここで一緒に食べるのが日課になっている。
ヴィクトル様はにこやかに微笑んでくれていたのに、わたしの姿を見るなり吹き出してしまった。何かおかしいところが……と自分の姿を見下ろすと、頭に乗っていた精霊が滑り落ちそうになったから慌てて受け止めた。
「日向ぼっこにちょうどよかったのか、遊びに来てくれていたんです」
「日に日に精霊の数が増えているような気がするよ」
確かにそうかもしれない。いつかはこの部屋も精霊で埋まってしまうだろうか。それはそれで、ちょっと楽しみだ。
ヴィクトル様が応接セットのテーブルにバスケットを置く。精霊達は一目散にそのバスケットに駆け寄って、わたしの側には一匹も残らなかった。
「……わたしよりもヴィクトル様のおやつの方がいいみたいです」
「精霊が餌付けされるのか、なんてスティーグ殿下は笑っていたぞ」
そう言いながらヴィクトル様はバスケットを開き、マドレーヌを精霊達に手渡ししていく。両前足でそれを受け取った精霊達は皆、思い思いの場所で食べ始めた。
「ヴィクトル様のおやつは美味しいですからね」
「おやつだけ?」
「まさか。全部です」
「良かった」
そんな軽口だって心地いい。
ヴィクトル様はバスケットの中から今日の昼食を用意してくれる。木製の大きなお皿に載せられているのは、チキンと野菜のサンドイッチ、サーモンとリンゴのカルパッチョ、それからマッシュルームの香草焼き。
背の高いグラスにはアイスティーが注がれて、透明度の高い氷がカランと澄んだ声で歌った。
「美味しそうです。このサンドイッチ、わたしが一番最初に食べたヴィクトル様の料理ですよね」
「そう、残業しているアンジェリカに差し入れしたやつな。君が無茶な仕事をしなくなって本当に俺は嬉しいよ」
「あの頃は残業続きで、早く帰れとヴィクトル様に追い立てられていましたもんね」
以前の事を思い返して、二人で笑う。
まさかあの頃は、ヴィクトル様と婚約をするだなんて思ってもみなかった。
他の事もそうだ。特級研究員になる事も、ブランシュ伯爵家から抜ける事も想像していなかった。
女神様と精霊に感謝の祈りを捧げてから、サンドイッチの包みを手に取る。
食べやすいようペーパーに包まれているサンドイッチに齧りつくと、やっぱり美味しい。柔らかな鶏肉も甘酸っぱいソースも、華やかな千切り野菜の食感も何もかもが美味しいのだ。
「美味そうに食べてくれて嬉しい」
「大好きですから、このサンドイッチも」
サンドイッチをお皿に置いて、今度はフォークを手にした。
ころんとした丸い形が可愛らしいマッシュルームを一つ口に運ぶ。噛むと旨味が溢れ出した。肉厚なマッシュルームにパン粉のさくさく感がいいアクセントになっている。
それを飲み込んでから、次はカルパッチョにフォークを伸ばす。
薄切りのリンゴをサーモンで包んで食べてみる。しゃきしゃきとしたリンゴは仄かに甘い。サーモンの燻された香りが鼻から抜けていく。
レモン汁のおかげかさっぱりと仕上がっていて、これもとても美味しい。
好きなものばかりで嬉しくなってしまう。
お喋りをしながら食べるご飯は、一人で食べる時よりもずっと美味しく感じる。それもヴィクトル様が教えてくれた事だ。
「そういえば女神光教から依頼が来てるって?」
「はい。古文書の解読依頼が来てるので、お受けしようかと」
門外不出の古文書を見せて貰えるなんてわくわくする。
これも手の甲にある女神様の祝福のおかげなのだけど。
わたしは女神のいとし子らしい。
女神様の加護をいただいた事で、精霊との親和性も上がっている。魔力量が上がっただけでなく、今までよりも繊細な魔力操作も出来るようになった。加護というだけあって、わたしは今現在も女神様に守られている状態だと教皇様がにこにこしながら教えてくれた。
「……古文書に釣られて、女神光教に攫われそうだ」
「そんな事はしませんよ。だって、わたしの居場所はヴィクトル様の居る所だけですから」
「ちゃんと分かってくれているようで良かったよ。まぁ君が神殿から帰ってこなかったら、迎えに行くだけなんだけど」
きっとヴィクトル様はその言葉を違えない。
わたしに何があったとしても迎えに来てくれて、守ってくれる。わたしはそれを知っているのだ。
昼食を終えても、わたしとヴィクトル様はソファーに並んで座っていた。
わたしの肩にはヴィクトル様の腕が回り、引き寄せられるままに体を預けた。
「今日の夜は何が食べたい? 君の好きなものを何でも作るよ」
以前に好きなお菓子を問われて答えられなかった事を思い出す。
あの頃とは違って、いまのわたしは好きなものが分かっている。きっとこれからもっと増えていくのだろう。それが、堪らなく嬉しいのだ。
「そうですねぇ……今日はお魚の気分です」
「いいね。魚をパイで包んで焼くのはどう?」
「絶対美味しいじゃないですか。お手伝いしてもいいですか?」
「もちろん」
「ふふ、良かった。わたし、ヴィクトル様がお料理をしているのを見るのが好きなんです」
そう言葉を紡ぐと、ヴィクトル様がわたしの事を両腕に閉じ込める。ぎゅうぎゅうにきつく抱き締められて、苦しいのにそれが嬉しい。もっとと強請るように、わたしもヴィクトル様の背に腕を回した。
「わたしが好きなものをたくさん作ってくれるでしょう。魔法を使っているみたいに凄いなって思うんです」
「これからももっと、好きなものを作っていくよ。料理以外でも何でも、アンジェリカを好きなもので満たしてあげたいんだ」
やっぱりヴィクトル様は甘い人だ。それがわたしだけに向けられている事に仄暗い喜びを感じてしまう。
胸の奥がぎゅっと締め付けられて、甘く疼いて、落ち着かない。
「でもわたしの好きなもので、一番はずっと変わらないんですよ」
「アップルパイ?」
「もう、何でですか。アップルパイも好きですけど」
「じゃあ、一番好きなものって?」
「そんなのヴィクトル様に決まってるじゃないですか」
紡ぐ声が自分でも驚く程に恋慕の色に染まっている。
それが恥ずかしくてヴィクトル様の胸に顔を埋めたのに、ヴィクトル様はわたしを抱き締める腕を解いてしまった。
片手が顎に添えられる。くい、と上を向かされると熱を孕んだ青い瞳と視線が重なった。
逆の手はわたしの肩をしっかりと抱いているから、身を捩る事も出来なくて。
ヴィクトル様の顔が近付いてきて、口付けの予感にわたしはゆっくりと目を閉じた。
唇が重なる。啄むような口付けは、次第に深くなっていく。
心臓がばくばくと騒がしい。心の奥が愛しい気持ちで満たされていく。
「愛してるよ、アンジェリカ」
口付けの合間に掠れた声で睦言を囁かれる。少しだけ空いた唇の距離。
「わたしも……愛しています」
吐息交じりの声がヴィクトル様の唇に触れると、嬉しそうに笑ってくれる。
ヴィクトル様はとっても甘やかな顔でわたしを見つめているけれど、わたしも同じ表情をしているのかもしれない。
息を整えるだけの時間もくれず、また、唇が重なった。
***
これで完結となります!
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アンジェリカの好きなもの~溺愛は同居からはじまって~ 花散ここ @rainless
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