想定外
アベはまだ緊張していた。
新任教師である彼女に、このような不測の事態に陥った経験はない。年齢的にも若い彼女は、人が異様にざわめいて忙しなく動いているさまに、現実味のない困惑を隠せずにいた。
薄い土煙が舞うグラウンドでは、彼女と同じく動揺した様子の生徒たちが各々でヒソヒソと話しながら、その情報を交換しているようである。
列は乱れ、人数を数えることもままならないような混乱だ。何度か注意を施したが、それに応えて冷静になれるほど、彼らにはまだ十分な理性が備わっていない。
やっとの思いで全員いることを確認した後、アベは内心安堵しながら、何やらバインダーに何かを書き込んでいる教務主任の男の方へ足を向ける。
教務主任は、いつにもまして落ち着きがないようであった。薄くなった頭頂は脂汗で光を反射しており、本人はそれを何度もスーツの袖で拭いながら、必死な形相で教師陣と連絡を取り合っている。
アベはグラウンドのざわめきに声を吸収されないように、少し声を張り上げて話しかけた。
「主任、1年4組は全員避難完了しています」
教務主任はパッと顔を上げ、力の入った目でアベを見、太い幹のような手でアベを手招く。アベは駆け寄って、汗のにじんだ顔に耳を傾けた。
「1の4は全員いるんだね?」
太く、籠ったような声が周囲を憚っていた。アベは困惑した顔で頷く。
「はい、います」
「あと避難してないのは?」
「えーと、……5と……2、でしょうか……?」
「いや、2は聞いてる。だから1年はあと5だけだね。……それにしても、3年生の避難が遅いんだよ」
教務主任はひどく落ち着かない様子で、じれったい気持ちが抑えられないのか、左足で絶えず貧乏ゆすりをしている。
「3年は3階にあるとは言え、ちょっと遅いんだよな……」
「……ただ混乱しているだけなのではないでしょうか」
「分からん。でもちょっと嫌な感じがするんだよな。ルート的に、昇降口で2年と被るじゃん、あそこでって……さ」
そう早口で言い放つと、大きく息を吐きながら、青いハンカチで額をゴシゴシと拭いた。4月の春真っ盛りだというのに、今の教務主任は真夏のような暑がりようだった。
「あの、私はどうすればいいですか?」
アベは現実味のない浮ついた空気感に堪え切れず、そう言った。しかしその言葉とほとんど同時に、抑揚の抑えられた声が重なって響く。
「2年1組は全員避難しました」
教務主任が顔を向けると、そこには、この非常事態に似つかわしくないような冷静な表情をしたヤマヅキが立っていた。
彼女は脂汗まみれの教務主任を見て一瞬眉をひそめ、すぐに表情を元に戻す。
「他、3組と5組、6組も避難が完了しました。2、4は体育だったので、すでにグラウンドにいたかと思いますが」
「それは聞いてます、ありがと。……2年は完了、と……」
「はい。それで、主任」
「ん?」
ヤマヅキは一瞬だけぐるりと周囲を見渡し、彼の耳元に小声で何かを言った。その一言に対し、主任教務は驚きの表情を浮かべる。
「ちょっと、アベ先生」
「はい?」
主任教務はすぐさまアベを手招きし、動揺を抑えたような声で言う。
「下駄箱の扉が施錠されてたって、本当なの?」
「えっ?」
「ヤマヅキ先生が、下駄箱が通れなかったから裏口から出てきたって言うんだけど」
アベは困惑し、先ほどまでの出来事を思い出す。
「えと、分かりません。私たちも裏口から出てきたんです」
「下駄箱の方は行ってないの?」
「そこから出ようとしたのですが、スガワラ先生が裏口の方がいいとおっしゃったので……」
「そうなの?! それならそうと早く言ってよ」
「すみません……」
そう言いながら、彼女の背中を嫌な寒さが走った。もしもスガワラが途中でアベを止め、裏口からの脱出を指示しなかったなら……。そのことが脳裏によぎったのである。
教務主任は頭を抱え、落ち着かないようにうろうろと足踏みをしていた。それに対しヤマヅキは冷静に、周囲を憚るようにして視線を巡らせている。
「だから今は三年生の避難に支障が出ているのか……」
「その可能性が高そうですね」
焦ったような口ぶりの主任に、ヤマヅキが容赦なく肯定した。分かりやすく、主任の顔色が悪くなっていく。
「どうしよう……。今からでも下駄箱の扉を開けに行くべきか……」
「そうするにしても、鍵がどこにあるのか分かるんですか。誰が閉めたのかも分からないんですよ」
「いや……あーもう、なんでこうなるかな……」
侃々諤々と話をしているが、こうしている間にも無常にも時間は過ぎて行ってしまう。主任とヤマヅキの話に、アベも加わろうと一歩を踏み出しかけたが、不意に保健教務の女性教師から彼女の名前が呼ばれた。
返事をして足早にその方へ向かっていくアベの後ろ姿を、ヤマヅキは怪訝そうに睨みつけていた。
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