脅威

「誰でしょう、あの人……」



 ヤマヅキの隣でアベが呆然として言った。



「消えた……ということでいいのでしょうか」


 不安そうに両肩を抱き、寒そうに二の腕をさする。妙な男はすでに姿を消したというのに、彼女はまだ目の前に男を見ているかのような表情を浮かべていた。




「さあ。また別の妖怪の類でしょうね。どんな術を使ったか知りませんが……」



 ふと、ヤマヅキが隣のアベを見上げる。






 彼女の顔は真っ青になっていた。前髪で隠れた左目をぐっと両手で押さえつけており、露わになっている右目は驚いたように見開かれていた。両肩が震え、口元が少し開いて歪んでいる。



 まさに典型的な恐怖した人間の顔だった。



「アベ先生、どうしたんですか」





 そう言いかけて、ヤマヅキも気づいた。



 目の前の廊下の奥、一階から何かが這い上がってくる。その姿はまだ見えないものの、底抜けに恐ろしい何かであることが直感的にうかがえた。



 まさか、とヤマヅキは心の中で呟く。彼女は咄嗟に最悪の状況を想像し、まさにそれが今の状況と当てはまっていることに戦慄した。アベの方を見上げ、何とか人間の声を保って言う。





「アベセイメイ、私に嘘を吐いたな」




「……えっ」




 途端に自分の本当の名を呼ばれ、意識を下に向ける。痛みが続く左目を押さえつけながら隣のヤマヅキを見ると、彼女は憎々しそうな顔をこちらに向けていた。



「何のことですか」


「私のいない間、何かあったんだろ」




 心臓の周辺に熱がこもる。変に鼓動が早くなり、嫌な予感が警鐘を鳴らした。



 アベが何か言い返そうと口を開いた矢先、足音が鳴り響く。それは廊下の奥、恐ろしい気配が漂う先だった。





「もう遅い。どうやら事態は最悪になった。お前が、いったい何をしたか……」



 ヤマヅキが続きを言いかけて、音が途切れた。



 目の前に彼女はいない。言葉を途切れさせ、轟音と共に姿を消してしまう。アベがヤマヅキは突然吹き飛ばされたのだと理解するころには、彼女は壁にもたれかかって頭から血を流していた。




「ヤマヅキ先生?!」




 土煙が舞う。壁は大きく損傷し、内部に埋め込まれた鉄骨すらも覗いている。ヤマヅキは壁に打ちひしがれ、苦しそうに表情をゆがめていた。



 アベが駆け寄ろうとすると、左目の痛みが強くなった。先ほどまでズキズキと血管が圧迫されるような感覚だったのが、今や脳を直接揺さぶられるほどの痛みに変わっている。




「うぅ……」




 小さくアベがうずくまり、うめき声を上げると。アベの肩に誰かが触れた。



 痛みがさらに強くなる。耐えきれずに床に膝をつきながら、どうにか肩に触れた人物の方へ視線を上げる。黒い影。






「……スガワラ、先生……」






 アベが見上げた先では、スーツを着崩したスガワラが立っていた。




 その表情はうっすらと笑みを浮かべている。なんとか上がる口角を抑えているかのようだ。今までに見せたことがないような、人を軽蔑するかのような冷ややかな目である。





「どうしてここに……?」





 息を荒げながらなんとか声を絞り出す。左目はもう潰れていてもおかしくないような痛みだった。




 スガワラは鼻で軽く一笑したかと思うと、アベの肩を手荒く押し飛ばす。彼女は押された衝撃で床に倒れ、困惑したようなうめき声を上げた。左目を押さえる手にぬるい液体が流れる。血だ。




「蜿苓協辟。譛画焚驥丞?」




 言葉ともならない言葉が、ヤマヅキの声で発される。するとどこからか音もなく、牛の頭を持つ巨体の男と、馬の頭の巨体の男が現れた。スガワラの方へ大きな鍬を振りかぶり、その黒いスーツに風穴を開けようと狙いを定める。




 アベが何か叫ぶ間もなく、スガワラは手を上げた。そして牛と馬の頭の大男たちの方を見据えて腕を振り払うと、煙のように大男たちの姿が揺らめいて消える。




「牛頭馬頭ごときに私がやられると思うなよ、小娘」




 スガワラがそう呟くと、壁にもたれているヤマヅキの方へ、血走った目を向けた。





 ヤマヅキは口から真っ赤に光った粘性のある液体を吐き出し、苦しそうに咳き込む。ガラガラと何か液体の混じったような咳の仕方は、不審者の女郎蜘蛛を追い払ったときのそれと同じだった。

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