見知らぬ者
ふと、ヤマヅキの視界の端を何かが通った。それと同時に、何か冷たい煙が胸をかすめたような、嫌なざわめきを感じ取る。それはアベの方を見ても同じようであり、彼女は不安そうな表情をしながら手で胸元を押さえていた。
一棟で感じたのと同じである。人でも妖怪でもないような、何とも形容のしようがないそれは、2階へ降りる階段の方が根源となっているようだった。
すぐにヤマヅキはそちらに向かう。3階はそう長い廊下ではないものの、どうしても数秒は費やしてしまった。背中にアベの困惑に似た声がかけられる。ヤマヅキは無視をした。
階段の下、2階へと降りていく踊り場から、さらに下へと降りていく人影が見えた。黒くて短い髪、紺色のTシャツのような服だった。
「待て!」
ヤマヅキの鋭い声に、その人影は少し反応したようだった。
彼女は階段を一気に飛び降りて、すぐに人影の方へと向き直る。アベも後ろから追いついてきたようであり、弾む息と長い髪が揺れるのが視界の端に移った。
人影はもう遠くの方へ行ってしまっている。2階の廊下の奥の方で、ヤマヅキの方を見てただ突っ立っていた。
その者とは距離があるのにも関わらず、その存在感は異質に光っていた。一つ一つの特徴が歪であり、それが回りの風景に一切溶け込まない。淡々とした背景に、派手な蛍光色で色付けされたような存在であった。
目は黒々と深い。何も危害を加えるつもりはないということを前面に出したような形である。良い言葉で言えば平凡、悪く言えばつまらない目であった。
紙は少し癖が入っており、男にしては少し長かった。襟足まで伸びており、耳元が隠れている。平均的な日本人と同じ黒い髪である。あるべくしてあるような、自然な感じを装ったようであった。
服装はヤマヅキが思った通り、ただのTシャツだった。無地の紺色、何の装飾もないシャツだ。下は灰色のズボンであり、みすぼらしくも華美でもない。街中を歩けば同じような恰好の人間が何人も見られるだろう。
だがそれらのすべてが背景に溶け込まず浮いていた。ただ男が突っ立ってこちらを見ているだけなのに、どうしてか内臓が宙に浮くような不自然な感じがある。
階段の影からようやく恐る恐る顔を出したアベも、男の方を警戒していた。嫌そうに眉間に皺を寄せては、自身の異色の左目を無意識に手で隠す。
「誰だ! ここの関係者ではないな」
ヤマヅキがハッキリとした声色で言った。その声は閑静な廊下によく響き、男の方へと真っすぐ進んで行く。
男は何か考え込むように手を顎に当て、うっすらと微笑みを浮かべた。
沈黙。ヤマヅキの言葉など気にも留めない様子で、男はしばらく黙っていた。
が、突然噴き出したように腹を抱える。口元を押さえ、腹を抱え、心底面白そうに笑い声をあげた。男の声は想像しているよりも平凡である。
警戒したようにヤマヅキが身構える。すると瞬き一つした瞬間、男が廊下から忽然と姿を消した。
「えっ?!」
隣でアベが頓狂な声を上げた。ヤマヅキ自身も、何が起こったのかまだ分かっていない。
彼女が廊下の方へ歩く。どれだけ進もうと、先ほどまで目の前にいた男の影も見られなかった。
「……」
気分は妙に落ち着いている。男と対峙していたときのような緊張感はない。
瞼の裏にはまだ男の姿が残っていた。
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