誰か

 二階は昇降口がある階であるから、もしや不審者がうろついているのではと思われたが、意外にもそこは静かだった。



 そこは二年生の教室が六組まで整備されている。一年生よりも数が少ない二年生の生徒は、文系と理系のクラスに三つずつ分けられていた。


「……」


 ふと、ヤマヅキが一組の教室の前で足を止める。教室の扉は全開にされており、伽藍洞になった教室の内装が外からも良く見えた。


 何も言わず、彼女は教室の中へと足を踏み入れる。アベはその後ろを恐る恐るついて行くが、教室の扉をくぐったその時であった。




 ぞわっ……というような感覚がアベの背筋を走った。寒いような、しびれるかのような震えを伴うそれである。




 それはヤマヅキにも感じられたようで、彼女は高く結ばれた髪を揺らして素早く振り返った。目が合ったアベは、何も知らないとでも言いたげに首を振る。


 ヤマヅキはしばらくアベの方を見やり、再び教室へと目線を戻した。



 その後もすべての教室をくまなく見たものの、不審者の影すらも見ることが出来なかった。逃げ遅れた生徒の姿もなく、空洞になった教室があるばかりである。その度に、アベは安心したような、不安であるような、曖昧な感情を抱いていた。



 最後の教室から出て、彼女らの目に入ったのは、廊下の突き当りに備え付けてある理科室であった。



 ここは生物、地学、化学、物理のすべてを兼ねる教室であり、理系クラスの移動で頻繁に使用されるのである。


 理科室のドアは半分開いており、最近に使用された形跡があった。



 (確か、3組の授業が理科室だったか……)



 ヤマヅキがそう記憶を起こしていた矢先である。



 彼女は急に駆け出し、すぐさま手を伸ばして理科室の扉を乱暴に開く。そうするや否や、理科室の中に足を踏み入れ、キョロキョロと辺りを見回し始めた。


 後から追うアベは不審げに、しかし緊張感をもってヤマヅキに声をかける。



「あの、どうかなさいました?」



 しかし、ヤマヅキはすぐには答えない。しばらく周囲を警戒するように視線を巡らし、厳し気な表情を見せている。



「ヤマヅキ先生……?」


「ここに人影が」



 その言葉には、どこか怒気が含まれていた。



「人影? でも……誰もいませんよ」


「ええ。でも、私からは見えたんです」



 アベはヤマヅキと同じようにして理科室内を見回すが、それらしき人影は見られない。2、3度ほど虚空に呼びかけてみるも、返ってくるのは沈黙のみだった。



「本当に誰もいないみたいですね」


「いや。誰かは居たようです」



 ヤマヅキがそう言って指をさす方を、アベは見る。



 そこには、一つの大きな標本が壁に立てかけられていた。


 標本は150センチほどの大きさがある。人間が片腕を水平に上げたポーズを取っており、左半分は裸体で、右半分は筋肉や骨など、内部の構造を模式的に表されている。その隣には、同じポーズを取った猿が描かれていた。人間と同様に、半分は内部の構造を示している。



 しかしそれは妙にリアルであり、教育用の標本にするには、ややグロテスクであった。アベは顔をしかめる。



「何これ……。これ、本当に授業で取り扱うんですか?」


「いいえ。これは昔使われていたそうです。教育上に不適切だと判断され、今は準備室の奥で保管されているはずです」



 それ以上は言わず、ヤマヅキは踵を返す。アベはその標本を、不気味そうに見ていた。標本の中の人間と猿が、アベの方を見つめ返しているようだ。



「何かが、近くにいる」



 不安そうにしているアベを尻目に、ヤマヅキは残酷にそう告げた。


 アベは焦燥に駆られながらも、震える手でギュッと拳を作る。今この瞬間、一番不安になっているのは生徒自身なのだ。そのことを思い出し、逃げ出したくなるような恐怖から、目をそらさないことを選んだ。



 一方、淡々としていたヤマヅキも、心中は穏やかではなかった。一瞬、標本を一瞥したが、すぐに理科室を後にする。


 彼女は眉間に深く皺をよせ、マスクの下で歯ぎしりをしていた。強く握りしめられた両の手は、かすかに震えている。

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