五時間目、動く 2

 その放送がかかったとき、ヤマヅキは二年生の授業を行っている最中であった。


 5時間目ということもあり、生徒たちの集中力は皆無に等しい。いつもならば全体に注意の言葉をかける彼女も、今日に限っては言う気も失せてしまうほどであった。



 ヤマヅキは数学の教師だ。自身の橙色の髪をポニーテールにし、白いマスクを絶えずつけている。稀に、マスクを外しているところを生徒に見られることもあるが、その左頬にはバッテンの大きな切り傷があるという。


 笑うところを見せず、浮ついた話もなければ、個人的な質問をしてもノーコメントという、まるで機械のような教師であった。しかしその仕事ぶりは完璧であり、複雑な業務も、卒倒してしまうかのような量の仕事も、彼女は顔色一つ変えずこなしては、必ず定時に帰宅するのである。


 普段から無口であり、淡々とした様子で業務をこなすヤマヅキには、一種の憧れを持つ生徒も教師も多い。冷淡だ、という評価も少なくはないが、それすらも圧倒してしまうほどの正確さがあった。職員たちの話では、その姿に惹かれた者が、彼女自身に思いを告げたこともあるそうだ。そのときも彼女は表情を変えず、まるで仕事のように、淡々と断りの言葉を述べただけだという。





 ヤマヅキが放送を聞きつけ、行動に移すまでは早かった。動揺を見せる生徒たちに短く指示を出し、廊下の様子をうかがう。


 静まり返った、青色の廊下である。立ち並ぶ生徒用のロッカーが黙って立っているばかりで、放送でかかった『忘れ物』の影も形も見られない。誰もいないかのような静寂が流れており、今や隣のクラスの声すらも聞こえない状況であった。



 (避難させるならば今か。ここからならば昇降口が一番早い。生徒を並ばせる時間はありそうだな)



 彼女は冷静にそう判断し、普段通りの抑揚のない声で生徒たちに話かける。


「これからグラウンドに向かう。廊下に適当に並べ。何か異変があれば私に知らせるように」


 それを聞くと、不安そうな顔を浮かべながらも、生徒たちはぞろぞろと廊下へ歩みを進めていく。かすかに響く誰かのささやき声がざわめきとなり、廊下へと流れていくのが分かった。ヤマヅキはすぐに咎めたが、混乱の渦中にある思春期の子供たちの興奮は冷めやらない。



 ヤマヅキは学級委員長に少し指揮を任せ、伽藍洞となった教室の中を見やる。



 授業の痕跡の残った、何もない空虚が広がっていた。外部では得体のしれない不審者がどこともなく彷徨っているというのに、その中は春の昼間の穏やかさが残り香を醸し出している。


 彼女は一瞬、教卓に置いてある自身のカバンに目を向けた。教材とチョークが入った、小ぶりな革のカバンである。




 (……もし。もしもこれが、起点となるというのなら)




 そのときの彼女は珍しく、緊張の色を見せていた。それを振り払うかのようにかすかに深呼吸をし、乱れたマスクを整える。


 ヤマヅキは足早に教卓へと進む。そして自身のカバンに片手を入れると、細く小さなベルトのようなものを取り出し、それをすぐに上着のポケットへと突っ込んだ。


 そして何もなかったかのように平然とした顔をして、廊下に並んだ生徒たちに向き直る。生徒たちは眉を寄せて、こちらに視線を向けていた。


「全員いるな。行くぞ」


 彼女はそれだけ言い放ち、昇降口の方へ足を進めた。

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