黒炎 ~学園編~

かえさん小説堂

五時間目、動く

 とある昼下がりの教室。アベは自身の黒く長い髪を春風になびかせながら、静かに黒板へ文字を書いていた。


 雲一つない晴れ間が続いた今日は、教室も窓を開けた状態で丁度いい気温が保たれている。春特有のゆっくりとした時間に流れるように、アベはわざと、いつもより声を落として授業を行っていた。


 それは生徒たちを咎めるためではなく、アベ自身のもつ優しさによるものであった。彼女は目の前で机に突っ伏している生徒たちを見、静かにほほ笑む。昼休み明けの五時間目は、アベ自身も昼寝をしたいくらいに心地よかった。


 彼女は黒のインナーに白いパーカーを羽織ったラフな格好をしている。彼女の朗らかで明るい印象は、生徒からも、同僚の教師たちからも好まれる。少し抜けたところと、片目の色が違うという異色な外見を除けば、アベは一般的な良い教職員と言えるであろう。


 ふと、強い風が窓から入り込んだ。ふわり、とアベの黒くて長い髪が風に揺れる。長い前髪が舞い上がり、色の違う左目が一瞬だけ姿を現す。彼女は急いで髪を整え、また左目を隠すように前髪を分けた。


 幸いなことに、生徒たちはほとんどが眠っていて誰も気づいていないようである。アベは胸の中で安堵し、何事もなかったかのように、黒板に文字を書き連ねた。




 この異色の目が、誰しもに認められているわけではない。生徒の保護者からは困惑に似たような批判の目を向けられるし、先輩の教師からは何度か注意を受けた。生まれつきだということを説明しても、医師の診断書を見せても、納得しかねたように首をかしげながら渋々と頷くばかりであり、問題視している人がいるのも事実である。


 受け持ちの生徒たちのほとんども、その存在を知っていた。


 だが、意外にも生徒から批判の言葉を受けることは少ない。優しい生徒たちは、その目を不思議がることはあるものの、敵対視するようなことはなく、むしろ若者の楽観的なものの見方で、お洒落だと言ってくれる者までいたのである。



 アベはその言葉に感謝していた。だが、彼女自身は、あまり青色の左目を気に入ってはいないようであった。



 アベは自身の左手につけた腕時計を見る。アナログ式の時計は、ちょうど一時を五分ほど過ぎたところを指していた。あと五分で授業も終わりである。


 彼女はそっとチョークを置き、「少し早いけど、今日はこれでおしまいにしておこうか」と、寝ている者を起こさないように言った。



 しかし、その気遣いも束の間。




 ブツリ、と音を立てて鳴り響いたのは、いつものゆったりとしたチャイムではなく、放送用の、ピンポンパンポン、という短い音であった。



 突然の、しかも授業中の放送に、アベは少し困惑する。生徒たちもその音に反応して、次々に頭を上げ始めた。朝の職員会議の時点では何も知らされていない。避難訓練にしてはいきなりすぎる。


 アベが怪訝そうな顔をしながら、頭上に設置されているスピーカーへと目を向けた。と、次の瞬間、聞きなれた先輩教師の声が鳴り響く。



「校内へ忘れ物が複数発生しました。各教室の皆さんは、しかるべき対応をお願いいたします。繰り返します、校内へ忘れ物が複数発生しました……」



 端的にそう言い放たれ、ピンポンパンポン、という無機質な音で、放送が終了する。



 校内に忘れ物。これは、学校内に不審者が侵入したことを示す言葉であった。放送の声は落ち着いていたけれど、いつもよりも声が上ずっていた。ここにいるアベも、その動揺を隠せなかった一人であった。



「先生、これって……」



 生徒の一人が放った言葉で我に返る。ここは教師として、生徒を守らなくてはならない。アベはすぐにマニュアルのページを思い浮かべ、そこに書かれていた内容を思い返す。


 まずは、生徒たちを落ち着かせなくては。



「みんな、落ち着いてね。自分の周りにまだ寝ている人がいたら起こして。これからグラウンドに出るからね」



 先ほどの静寂が嘘のようにざわめく。声が大きくなりそうな状況に、「静かにね」とアベが注意した。いつもならば騒がしい男子生徒も、今回ばかりは素直に言うことを聞いたようだ。



(まずは生徒たちの避難が最優先……。大丈夫、ここは一階。ここから下駄箱に向かって真っすぐ行けば出られるはず)



 アベは生徒たちが冷静であることを確認し、音を立てないように静かに廊下へ連れ出す。見えない危機に晒されながら、それでも生徒たちは何も言わずに大人しくついてきた。アベはそのことに安心しながらも、周囲に細心の注意を払う。人の気配はどうやらないらしい。


 素早く、大勢の生徒の先頭を突き進む。他のクラスも、ぞろぞろと廊下へ集まってきていた。中には恐怖で泣き出す生徒もいる。アベはそれを横目で見て、あえて何も言わずにとどめていた。


 下駄箱にたどり着くまでの距離はあまりない。普段ならば一分もかからずに行けるはずだ。しかし今は緊急事態であり、何事にも慎重にならなければならなかった。アベは息を飲む。この角を曲がれば、下駄箱はすぐそこである。




 だが。




「アベ先生、アベ先生……」


 後ろの方から、ひそやかな声が聞こえてくる。振り返って見ると、隣のクラスで授業をしていた男性教諭、スガワラが、生徒たちの波をかき分けて来ていた。


 彼もこの突然の状況に焦っているのだろう。普段なら綺麗なオールバックの髪型が、いつもより乱れている。彼は細い腕を伸ばして、アベの肩を掴んだ。



「なんですか?」


 アベは少し怪訝そうに顔をしかめる。しかしスガワラはお構いなしにヒソヒソと言った。


「ここから出るには少し危険です」


「え? なんで……」


「考えてもみてください。下駄箱は不審者が一番入りやすい場所です。まだ残党が近くにいるかもしれない……。ここは裏口を使いましょう」


「ですが、」


「ついてきてください。私が先導します」


 スガワラはそう言って、半ば強引に生徒たちを引き連れて逆走してしまう。


 この学校は山に囲まれた場所にあるため特殊な構造をしており、校内に侵入が可能な場所は、下駄箱か、下駄箱からつながっている昇降口、裏口の三か所しかない。そのなかでも最も広く、侵入しやすい場所が下駄箱なのであった。


 それに比べて裏口は、真正面が生い茂る森になっており、人が通れるのは獣道しかないような場所になっている。見通しが悪く、一見しただけではその存在も分かりづらい。そこから不審者が侵入できるとは思えなかった。



 (たしかに、安全なのはそっちだよね……)



 アベはひとまず、スガワラの提案に乗ることにした。


 スガワラはアベよりも教師として働いている時間が長い。知識と経験量においては、はるかに信頼性があった。


 アベは周囲の生徒たちに静かに声をかけ、前を歩くスガワラについて行くことにした。


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