不審者?
先ほどまで扉の前で腕を組んでいた不審者が扉を開け、アベとヤマヅキの方を、覆面に隠された顔でじっと見つめていた。
アベは思わず息を止める。だがそれとは対照的に、ヤマヅキは冷静であった。すぐに不審者の方をじっと見据え、デスクに隠れた手のひらに力を籠める。
不審者が動くのに、そう時間はかからなかった。
黒ずくめの姿が一瞬小さくなったように見えたかと思うと、恐ろしいほどの脚力で飛び上がり、一直線にヤマヅキの方へとめがけて飛んでくる。
それをヤマヅキが後退して避けると、不審者は次の動きへと入る。着地したとほとんど同時にデスクを蹴り上げ、乗っかっていたプリント類をバラバラと宙へ漂わせ
た。
紙の雨が降る。打ち上げられた紙は無造作に、不規則に降り注いだ。鬱陶しくちらちらと落ちてくる紙にいら立ちながら、ヤマヅキはそれでも不審者の方に目を向け続けた。
一枚の紙がヤマヅキの目をかすめる。目を細めて再び開けたときには、目の前に不審者の拳があった。
ガン! と肉体同士がぶつかる音が鳴り響いた。
「ヤマヅキ先生っ!」
アベが紙の雨にやられながらも叫ぶ。不審者はそちらには見向きもせずに、舌打ち混じりに後退した。
ヤマヅキの頬に、小さく痣のような傷ができている。彼女は不審者の動向に気づいた瞬間、すぐさま顔を背けたらしい。しかしそれでも躱しきれず、罰点の傷跡の隅にかすっていた。
一方の不審者はみぞおちの辺りを抱えながら、ヨロヨロと力なく後退している。彼女は顔を背けながら、同時に不審者に右足で蹴りを入れていたのだった。
「誰の差し金だ!」
罰点の傷を撫でながら、敵を射抜くような叫び声をあげる。
「妖怪ごときが人間のフリなどをして、何が目的だ!」
その言葉に、アベも不審者もピクリ、と反応する。
それは、アベが薄々に感じながらも、かすかな希望として意識から隠していた推測であった。
この学校を襲った不審者集団の正体は、妖怪なのではないか。という。
ヤマヅキの鋭い視線に参った、とでも言いたげに、不審者はゆっくりと両手を上げた。
「……何の真似だ」
不審者はそれには答えず、上がった左手で自身の顔を隠している覆面をはぐ。バリバリと音を立ててはがれていくあたり、相当硬く覆われていたのだろう。窮屈そうに首を振りながらめくれ上がった顔面は、それは実に人間のそれであった。
「えっ」
意外そうにアベが頓狂な声を上げる。妖怪ではなかったのか? そんな疑問が、軽い安堵と共に湧き上がった。
しかしヤマヅキは眉間の皺を深くし、歯を苦々しく食いしばる。
「生き血を啜ったな!」
ゆがめられた口の端から、憎らしそうな声が漏れ出た。
不審者の顔面は若い男性のようなものだった。困ったように眉を寄せながら、口元は三日月のような笑みを浮かべている。
アベは口の中で、まさか、と呟いた。
妖怪が人間社会に溶け込むことは稀である。しかしそのごく稀に、人間に自らの姿かたちを変えることが出来る個体があるという。いずれの個体でも、そうするためには、人間の生き血が必要であるとか……。
「吐け。首謀者は誰だ?」
ヤマヅキは緊張したように糾弾する。全体の空気がピリッと張り詰め、アベの背中を汗が伝った。
が、不審者は口を開かず、そのままの硬い表情を保ちながら、両の手袋を外し始めた。
する、とあっけなく落ちていく手袋。現れた指の内側は、不自然に色が変わっていた。指の先から付け根までが、鋭い刃になったような……。
そう考える間もなく、不審者はヤマヅキへと急速度で接近する。手のひらを大きく広げ、再び彼女の顔へと振りかぶった。やはり、指の内側が鋭く光っている。
あれに当たれば切れてしまう。そう直感した彼女は、身を屈めて躱した。片足のみを曲げて縮こまり、もう片方の足で、不審者の足をはらう。
バランスのくずした不審者は倒れるかと思われたが、まるで行動を読んでいたかのように床に手をつき、二、三度バク転をして見せた。
ヤマヅキは舌打ちをし、すばしっこい不審者へと距離を詰める。床を蹴り飛ばした彼女は、目にもとまらぬ速さで不審者の顔面へと足を突き出した。つま先が不審者の鼻先に届いたかと思われた。
が、突如として風が吹いた。
デスク上にあるプリント類が再び舞い上がり、突風と共にバラバラと暴れまわる。ヤマヅキは何かに気が付いたかのようにハッと息を呑み、体制を立て直して床へ両足を付き、衝撃に備えるような構えをした。
「妖怪ごときで悪がったな」
不審者の声であろうか、その顔から発せられたとは思えないような濁声が風に乗って漂う。ヤマヅキは不審者の様子を確認しようとうっすら目を開けるも、視界が一枚の紙によって遮られた。
「きゃっ!」
アベが小さく悲鳴を上げると、その途端に、時が止まったかのように風がやんだ。
ヤマヅキは顔にへばりついた紙を払いのけ、すぐさま不審者の姿を捕らえようと辺りを見回す。
「……畜生」
苦し紛れに呟かれたその一言は、すでに二人だけになった職員室のなかで空しく消えた。
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