敵
足音はない。それが当然のことだとヤマヅキは分かっていたし、その対策もしてきたつもりであった。
彼女は依然として廊下の方を睨みつけている。その背後でアベが覚悟を決めたように構えているのを、ヤマヅキはちゃんと把握していた。
それならば、と、ヤマヅキは小さくつぶやいた。彼女は上着のポケットに入れていたチョーカーを取り出し、慣れた手つきで自身の首へと装着する。
アベはその物体を、一瞬だけ目撃した。
細く、小さな首輪である。大きさを調整できるタイプのものらしく、色はくすんでいて、かなり古そうな代物だ。それは首元を飾るためというよりかは、もっと別の用途で使われるもののように思われた。
凛とした雰囲気を持つヤマヅキには似合わない。それに、どうして急にそんなものを取り出して着けたのか……。
と、そんなことを思っているのも束の間。
アベの心臓が急に跳ねる。彼女にとって嫌な感覚だ。首元に刃物を突き付けられているかのような緊張感が張り詰め、静寂のなかにノイズを見出す。
彼女の視界が乱れた。急いで左目を閉じ、和紙と筆を握り直す。ヤマヅキはまだ落ち着いていた。
ふと、教室の廊下側の窓が揺れる。それと同時に、誰か人型の影が曇りガラスに色濃く張り付いた。全身が黒い装束で覆われているようだ。
と、それと同時に、ヤマヅキは教室を飛び出す。アベはその突拍子のなさに、彼女の背中を見ることしかできなかった。
ヤマヅキが飛び出し、教室を出て右の方に顔を向ける。先ほどまで得ていた気配は一つだけ。予想は的中していた。
そこには黒い衣服に身を包んだ不審者が、教室の窓にもたれかかっていた。ぐったりと力なくもたれるその様子は、ずいぶんと体調が悪そうである。不審者は急に現れたヤマヅキを見、驚いたように身をのけぞらせる。
だが遅かった。ヤマヅキは目にもとまらぬ速さで相手の懐へと潜り、右手に握られた包丁を落として、勢いよく背負い投げを食らわせる。
(入った)
そう思ったヤマヅキであったが、相手を背負うその一瞬で、確実な違和感を得た。
軽すぎる。
トス、というあっけない音が鳴ったかと思えば、次の瞬間、不審者はぐにゃぐにゃと動き出した。
そして衣服の穴から灰色の煙が漏れ出てきたかと思うと、そのまま空気が抜けた浮き輪のようにシワを増やしていき、ペタン、と床にへばりつく。
中身だけが忽然と消えてしまったのである。
ヤマヅキは目を細めた。そしてマスクの中でギリ、と歯ぎしりの音を曇らせる。アベが恐る恐る廊下に顔を出したときには、すでにヤマヅキと不審者の衣装のみが残っていた。
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