接近

 ヤマヅキが造作もなく教室の扉を開けたのを見て、アベは内心緊張していた。


 もしここに不審者がいたら。そのような危惧がいつまでも付きまとってぬぐえない。



 しかしそんなアベの不安をよそに、ヤマヅキは普段と変わらない様子で教室へと足を踏み入れた。一年四組。先ほどまでアベが授業を行っていた教室である。


 教室はもぬけの殻であった。一年生の生徒たちは全員グラウンドに出ているため当

然のことだったが、アベはその静寂に胸をなでおろす。



 黒板にはアベの丁寧な字が残っていた。複数の掲示物と連絡事項が張り付けられ、風によって時々揺れている。その黒板の目の前に設置されている教卓は白いチョークによって所々汚れており、細かい粉が無数にこびりついていた。


 その教卓の上に、アベの茶色いカバンが置いてあった。チョークの粉の汚れが目立つ、少々不格好な手提げカバンである。アベはそれを見るなり、小走りで駆け寄った。


 ヤマヅキは黙って教室の様子を見ている。その様子を横目に、アベは自らのカバンの中をまさぐる。



 (あった……)



 彼女の指先に薄い感触が走る。短冊の形をした和紙が束になったものだ。それと同時に、古びた一本の筆を抜き取った。



 (生徒を守るため、守るため……)



 アベは心の中でそう繰り返し、急いで紙束と筆を自らのポケットのなかにしまう。


 幸いにも、ヤマヅキは背を向けていた。オレンジの色に近い茶髪が風に揺れている。彼女はじっと教室の外の方に顔を向け、どこか威圧感を含んだ背中を誇示しているようだった。


 アベは教室のなかを一瞥し、何もなかったことを確認した後、背を見せているヤマヅキに声をかける。



「ヤマヅキ先生、もう大丈夫で……」



 だが、それを言い切る前に、ヤマヅキがその言葉を静止させた。


 彼女はアベの方を見ず、ただ右腕を上げただけである。だがその行動には、どこか緊張感があった。



 静かに、とでも言いたげである。



 アベは声を落として言った。


「あの、大丈夫ですか……?」


「……」



 ヤマヅキは答えない。ただどこか遠い場所を見据えて、大きく息をついているばかりだった。




「……近い」




 ようやく発したその言葉には、ひどく毒々しい重圧がかかっている。



「近かったですか? すみません」


 アベが慌てて遠ざかろうとするも、ヤマヅキは首を振った。


「そうじゃない。……奴らの話です」




 そのヤマヅキの冷静な声に、アベの心臓が跳ね上がる。


 奴ら。その代名詞が何を指しているのかは明白だ。この学校を襲った不審者の一人が近い、ということなのだろう。


 アベは思わず、先ほどポケットのなかに入れた紙束に手をかける。扱い方は熟知している。ヤマヅキに見られたとしても、それは彼女の命を守るためだ。


 仕方のないこと、と割り切って、アベは右手に筆を、左手に紙束から取り出した一枚の和紙を握りしめた。


 ヤマヅキは依然として背を向けたままである。足音のしない廊下を睨み、彼女は慎重に教室で身構えていた。


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