トラブル発生

「あの!」


 ひどく取り乱したような、大きな吐息の混じった声が、アベを振り返らせた。保健教務の指示を終えたアベは、すぐさま異変の気配を察知してそちらの方へ視線を向ける。


 見ると、教務主任とヤマヅキが会話していたところに、スガワラが割り込んだようであった。


 彼は長時間走ったときのようにゼエゼエと呼吸をし、弾んだ心臓を落ち着かせるように、自身のスーツの胸倉をつかんでは、辛そうに顔をしかめていた。



「だ、大丈夫?」



 主任はスガワラの方に手を置いて、心配そうに顔を覗き込んだ。それとは対照的にヤマヅキは少し眉をひそめて、腕を組んでその様子を達観している。


 スガワラは乗せられた手を払いのけ、鬼気迫った声を発した。



「3年の避難途中でトラブルが……発生、したようで……」


「何?!」


「トラブルとは?」


 主任の上ずった声に、ヤマヅキの冷静な声が重なる。やっぱりか、と悔しそうに小さく呟く主任を横目に、彼女はスガワラの顔へと注意を向ける。


 スガワラはまだ整わない呼吸を必死に制御し、生徒たちに聞かれないよう、声を落として話した。アベはひそかに聞き耳を立てた。



「どうやら昇降口付近で、不審者と遭遇、してしまったようでして……。何人かの生徒はもうグラウンドに、出られたようですが、みんなは、散り散りになって校舎内に、逃げてしまったようで……」


「最悪じゃねえか……」



 教務主任がぐったりとした様子で頭を抱える。それを気にも留めず、ヤマヅキは冷静に言った。



「なら、生徒たちにこの状況が伝わるのも時間の問題です。混乱を抑えるためにも、今いる生徒たちを帰宅させましょう」



 彼女がそう提案する声に、焦りは微塵として感じられない。まるで何度も経験しているかのように平然としている様子であった。



「それがいいか……。よし、何人かの先生に保護者への緊急通達をお願いしよう」


「あの!」



 アベは三人の会話に割り込んだ。三つの視線がアベの方を向く。一つはやけに嫌悪感をにじませていた。アベは少しの緊張を感じたが、それを表情には出さず、恐る恐る言う。


「警察には通報しているんですよね……?」


「とっくの昔に」


 そう言ったヤマヅキの声はやけに通っており、アベを威圧するかのようだった。


「やりましたが、来ません。あと放送をかけた、ホノダ先生も」


 彼女はそれだけ言って目をそらす。生徒たちの様子を見ているそぶりをしていたが、明らかにわざとらしい。


 それに気づかないかのように、スガワラは小首をかしげて見せた。


「確かに、先ほどからホノダ先生の姿が見えませんね。まさかまだ放送室にいるとは思えませんけど……」


「ああ、何、ちょっと待って!」


 そう言うスガワラには目もくれず、教務主任が新たに報告しに来た教師に怒鳴り声をあげる。


 どこもかしこも混乱だらけだ。


 ヤマヅキは一瞬だけアベの方に顔を向けたが、またすぐに生徒の方を見た。





 アベは校舎の方を向き、その黄ばんだ壁を眺める。


 あの中に、まだ生徒たちが残って、命の危機に置かれている。そう思うと、いてもたってもいられない。


 今は静かなあの校舎に、いつ悲鳴が響いたって不思議ではないのだ。しかも、相手は複数人である。年端もいかない学生が、彼らに打ち勝てるとは到底思えなかった。


 アベは思わず、自らの長い前髪に手をかける。指先が黒い髪に触れて、少し迷った。



(……。)



 だが、突如として呼ばれた自分の名前によって、その思考がかき消される。


「アベ先生、ちょっと」


 呼びかけたのは、家庭科の女性教諭だった。呼ばれた方を向くと、すでに何名かの教師が、先ほどの教務主任のところに集まっている。


「は、はい……」


 アベは慌ててその輪の中に入り、教務主任の太い声に耳を傾けた。



「今動ける先生は全員いるね。これからやってもらうことを各自に割り当てるから、よく聞いてください」

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