化け物
「ここも閉まっていますね」
アベとヤマヅキの目の前にあるのは、美術室へと繋がる大きな扉である。両開きになっている扉は、重々しい南京錠によって堅く閉ざされていた。
三階はいささか狭く、三年生の教室のほか、美術室が備え付けられているばかりである。校舎内に取り残されている問題の三年生であるが、教室はもぬけの殻であった。しかし、いささか教室内は荒れていた。
避難時に慌てていたのであればそれでいいが、アベの脳裏には不吉な想像がよぎる。その嫌な想像を振り払うように、二三度首を振った。頭が揺れる。
「とりあえず、一棟は調べ終わりましたか」
ヤマヅキが独り言のように発すると、アベは力なく返事をした。
アベが生徒たちのことを心配していることは察している。だが、彼女は冷たい横顔を向け、あたかも気づいていないかのように、淡々としていた。
「次は二棟になりますね。二階の渡り廊下から向かいましょう」
「あ、はい……」
そう言いきらぬうちに、ヤマヅキは歩き始めてしまう。もう慣れつつある早い足取りに、アベはついていこうとした。
しかし、その時である。
俯きながら歩き始めたアベは、突然足を止めたヤマヅキの背中にぶつかった。
「わっ……」
「離れてください」
ぶつかったアベに一瞥もくれず、ヤマヅキは静かに言った。
アベが顔を上げる。ヤマヅキの背中越しに、黒い服装が見えた。
「あっ!」
二階と三階をつなぐ階段の途中で、全身を黒い衣服で覆った不審者が、二人の方を見上げている。その手には刃渡りの長いナイフがあった。
一気に空気が張り詰める。ヤマヅキが両の拳を握りしめた。それに突き動かされるように、アベも懐から短冊と筆を取り出す。
しばらくにらみ合っていた。相手の間合いを図っているかのように、キリキリとした沈黙が周囲を埋めている。
先に動いたのはヤマヅキの方だった。
彼女は階段を数段飛ばして駆け下り、不審者の数段上で飛び上がる。落下する力を利用しながら、不審者の上半身に足を向ける。飛び蹴りの構えだった。
しかし、不審者はそれに素早く気づき、背面から階段を飛び下りた。ヤマヅキは階段の一段に着地し、次の動きへと構えを取る。階段の下段まで一気に降り切った不審者は、右手のナイフを握りしめて胸の辺りで構えた。
ヤマヅキは足に力を籠めるように体を屈めたかと思うと、すぐに飛び出し、目にもとまらぬ速さで不審者の目の前へと躍り出る。そのままの体制で、流れるように上段蹴りを首元に食らわせた。
グキ! という鈍い音と、足と首が触れた際の、破裂に似た音が廊下中に響き渡る。不審者は廊下の方へと吹っ飛び、痛そうに首元を抑えていた。刃渡りの長いナイフは、はるか向こうへと滑って行った。
「す、すご……」
ヤマヅキの素早い所作に、アベは思わず感嘆の声を漏らす。階段を下り、ヤマヅキの方へと駆け寄ろうと足を踏み出した、その時。
素早い風を切る音と共に、ヤマヅキの体が不自然な形で硬直した。
「えっ?!」
驚きの声を上げたのはアベの方だった。突如、不審者の吹き飛んだ方から、か細い糸のようなものがピンと伸び、ヤマヅキの関節を固めたのである。彼女の腕から足まで、細い糸が絡みついていた。
「チッ……」
悪態をつくヤマヅキの目の前で、不審者がガクガクと動き出す。彼女を縛った糸は、不審者の手のひらから伸びていた。
黒い衣服が内側から破られる。硬い材質の服が、バリバリと音を立てて裂かれ、その間から昆虫の足のようなものがソロソロと出てきた。
不審者の服はほとんど原型をとどめていない。引き裂かれたその繊維の間から、人間らしからぬものが覗いては、活き活きと呼吸をしている。服が破られるうちに、顔の覆面も同時にはがれていく。その下から現れたのは、不自然なほどに美麗な女の顔だった。
ようやく落ち着いたその姿は、大きな蜘蛛と女が合成されたようだ。
女と蜘蛛の化け物は、その美麗な顔の口角を上げ、人間の声でクスクスと笑った。
不気味なその声に、ヤマヅキは苛立ちを隠さずに固められた手足を乱暴に動かした。しかしその抵抗も空しく、細い糸は千切れそうにもない。
「ヤマヅキ先生!」
アベが声を上げるが、それと同時に左目がズキンと痛んだ。その目に両手を当てている一瞬の間に、女と蜘蛛の化け物はヤマヅキの眼前にまで寄っていた。
(まずい!)
アベは急いで短冊と筆を握りなおすも、すでに蜘蛛の鋭い足がヤマヅキの首元に迫っている。
「せんせっ……」
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