畏怖

 やるしかない……。



 アベは懐中の札をそっと手に取る。心臓が空中に漂っているかのような緊張感。彼女は震えながらも、ちらとバリケードを見ながら、女子生徒二人を見下ろす。



 バランスを崩せばすぐに壊れてしまいそうな机と椅子は、まさに生徒の不安を表しているようだった。



 浮遊感。せり上がった鼓動が口から出そうになりながら、吐き気を抑えるかのように、口を閉じて身構える。どこか一点を見つめているようで、意識は外界のどこにもなかった。




(でもやるとしたら、勝負は早さ)




 ここは二棟の二階。出入口のある一棟までは、幸いにもそう遠くはない。すぐに駆けだしたとして、渡り廊下を突き進み、階段で一階へと降りて裏口から脱出する。経路は単純であるが、その分、身を隠すような場所がどこにもない。



 しかも、一人は足を怪我した負傷者だ。早く走れるとは到底考えられなかった。片方の運動部の生徒ならまだしも、怪我した生徒の方はそう動けそうもない。


 だったらできることは一つ。だがその一つを実行するだけの勇気が、まだアベにはハッキリと持てずにいた。





……憤怒した父の表情が目に浮かぶ……。





 アベは父親が怖い。陰陽師協会の会長を務める父親は、自他ともに厳しく、規則にうるさい人だった。


 本来、陰陽師という存在は公表されていないもの。その名を聞くとしても、空想上でしか存在しないもの、もしくは歴史上存在していたもの。そのような位置づけであり、原則として、陰陽師の正体は誰にも明かしてはならないことになっている。



 術を使って、生徒たちに招待がバレたら……。



 口の軽い高校生だ。広まらないわけがない。それがヤマヅキの耳に入り、本山の父親に報告でもされてしまったら。




 脂汗が噴き出す。毛穴が開くような、ピリピリとしたしびれが全身を駆け巡る。


「……先生?」


 ひどい顔をしているのだろうと彼女は自覚するが、生徒の呼びかけに答えることもできない。


 その恐ろしさに、力なく腕を垂れた。




「……ごめん」


 アベは暗い穴に落ちていくような感覚だった。




「必ず他の先生を呼んでくるから、もう少し待っていてくれないかな」


「……」




 沈黙。どこかで物音が鳴ったような気がしたが、アベには聞こえていない。



「ごめんね。必ず助けを呼んでくるから」



 言葉に詰まりながら、舌先だけで声を紡ぐ。



 どこに目を向けていいのか分からない。生徒の目がこちらを向癒えていることは、痛いほどに分かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る