逃亡者

 ミシ、とスガワラの両腕の骨が鳴る音が聞こえる。成人女性の平均的な体重とはいえ、数十キロがためらいなく腕にのしかかっているのだから、当然だった。




 スガワラは顔を歪めてヤマヅキの方を強く睨みつける。それは腕の痛みによるものか、心の奥底からの憎悪によるものか、果たしてそれは分からなかった。




 鬼をも殺しかねないような明確な殺意に、ヤマヅキもそれ相応の態度を示す。彼の首にかけられた手に力がこもった。



「目的は何だ」



 きつく、端的にヤマヅキは言った。




 しかし、スガワラは歯を食いしばったまま口を開こうとしない。頑として押し黙り、沈黙を貫いている。




「何故私の正体が分かった」





 その問いには、スガワラは嘲笑した。眉間に皺を作ったまま、表情だけを見せつけて相手を挑発するかのような、乾いた笑い方である。



 ただ、一瞬だけ向けたスガワラの視線を、彼女は見逃さない。彼が視線を向けたのは、彼女の顔の少し下、丁度首元である。




(なるほど、この首輪か)




 事件が起こったときから身に着けている、茶色く古びた首輪だ。閻魔の眷属であることを示すそれが、彼には見覚えがあったのだろう。







 



 今から数千年前、黄泉の国の一つ、地獄から逃亡者が出た。



 堅牢にして残酷を極める地獄からの脱走など、通常ではあってはならないことである。例の仏の差し金でも、犍陀多は逃げおおせることはなかった。それを混乱に乗じてとはいえ、あまたの獄卒や閻魔の支配から逃げおおせた者がいる。




 そのことが原因で、閻魔の直属の隷従者である炎虎は、逃がした者の数だけ顔に傷をつけられたのだった。







 ヤマヅキの思考では、それが今目の前にいるスガワラの体に入った怨霊だった。




「その体はどこから手に入れた」



 しかし、生きている人間に怨霊が取り付いても、自由自在に動かせるというわけではない。人間には自我がある。それを取り除かない限り、思い通りに体を使うことは出来ないはずだった。






 ふと、ヤマヅキが手に力を籠めなおしたときだった。ネクタイが緩み、襟元が崩れてくる。ヤマヅキの手の下、黒い模様が見えた。





 片手をどけると、その黒い模様はバーコードのようだった。その下には小さく番号のようなものが振られている。入れ墨のように皮膚に刻み込まれていた。



「これは……」



 呟くと、ヤマヅキの背中を悪寒が走る。目を動かす前に、すぐにスガワラから距離を取った。風が吹いている。




 風の方へと目を向けると、そこには職員室で対峙した鎌鼬が立っていた。風は鋭い刃に変化し、空間を自由に舞いながらヤマヅキへと襲い掛かった。服のところどころが引き裂かれる。左足が一瞬熱くなった。見ると、服が裂け、皮膚から血が流れている。




「くだらん邪魔を!」




 怒りに身を任せ、すぐさま呪いの言葉を発そうと喉を開いた。が、言葉を紡ぐ前に目の前に煙が現れ、廊下の一帯が灰色の一色に染まってしまった。




(えんえんら……クソ、ここの妖怪共は皆奴の味方か!)




 必死に煙を腕で払いのけるが、払ったすぐそばから別の煙が湧き上がってくる。一呼吸する間もなく、一寸先すらも見えなくなってしまった。




 舌打ちをし、ヤマヅキはすぐに壁に手をついて駆けだした。すでに怨霊の気配はなくなっている。






(早急に奴を始末しなくては! 奴の目的が黒炎ならば、今度こそ失敗は許されない!)






 はやる息を隠そうともせず、背中を追われるようなカッカとした熱い感覚に、無理矢理足を動かす。




 どのくらい何もない校内を駆け巡っただろうか。そのころにはようやく頭に昇った血も引いてきたようである。視界が途端に鮮明になったかと思うと、どことなく気だるげな疲労感が両肩にのしかかってきた。




 丁度そのときだった。廊下を歩くアベを見つけたのは。



「アベ先生!」

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