三十三
美津が吉原を去ったのは明治二十年六月頃である。年季は六年(明治二十二年の冬まで)の予定であったが、それ以前に借金はすべて清算していたのである。
遊女から足を洗った美津は故郷に戻るつもりであった。
「妓楼を出る前に実家へ手紙を送ったのですが、届いた返事を読んで両親と妹が和歌山を出ていたことを知ったのです」
その行き先は分からなかった。さらに長兄は家や田畑を引き継いだことも知った。
「兄とは昔から折り合いが悪く、私は東京に住むほかなくなってしまいました」
それから美津は吉原にいた頃、客としてきていた結城という男の
妓楼で出会った当初、結城は独り身であると話していたが、のちに女房持ちであることが判明した。しかし彼は妻との関係はすでに
「でも、そういう男は多いの」
といって美津は笑う。それは多くの客を相手にしてきたからこその実感なのであろう。
ただし
「何を揉めているのか知らないけれど、一向に離縁は進みませんでした」
それから数年に渡って離縁の話は
妹のこと、結城のこと、
「兄から手紙がきたのです」
手紙の内容は、「これまで両親と妹の居場所を教えずに済まなかった」という謝罪の言葉と、「父に口止めをされていた」という弁解の言葉のほか、美津が最も知りたかった両親と妹が暮らしている場所の住所が書かれていた。
「兄は父から口外しない代わりにお金をもらっていたそうです」
口止め料の原資は妓楼働きの前金である。日が経つにつれ、長兄は幼い妹への自責の念に駆られたのだろうと美津はいう。
美津は事実を知って
(よかった)
と、思った。
(これでようやく妹と会えるから)
ひと息つくと、今度は涙がとめどなく流れた。
後日、美津は教えられた住所に行った。
下谷龍泉寺町三四八番地。そこは一葉が以前に営んでいた小店の裏手にあり、土地には吉原妓楼の寮が建つ。寮の玄関前にはひとりの女の子がいてコマを回して遊んでいた。
「ミドリ」
不意に懐かしい女性の声が寮の中から聞こえた。それが母親の声だったと気づくのに時間はかからなかった。
遊びをやめ、寮に入ってゆく女の子。その子は数え年十二となったミドリであった。
美津は意を決し、寮の玄関先から声をかけると奥の座敷から母親が現れた。
「母は驚いていました。それから父もやってきて二人してずっと謝ってくれたのですが、許す気持ちにはなれなくて」
それから美津は、ミドリのいる妓楼の寮を訪ねては交流を重ねたが、心を通わせる時間が増えると現実に付き戻される出来事も増えていった。
ある日のこと、美津は妹から相談を受けた。
「なんかね、おじさんが気持ち悪いの」
おじさんとは、妹の引受先となっている吉原遊郭の楼主である。
年齢を重ねるたびにミドリは美しく成長していった。そのことを誰よりも喜んだのは多額の前金を支払った楼主であろう。
同年の夏、楼主が赤飯のはいった
その赤飯は楼主の店で新しく遊女になる娘を祝うためのものであったが、美津からその意味を聞かされたミドリは自分の置かれた立場を認識したのである。それ以降、彼女は将来への恐れを抱くようになった。さらにこのような道にいざなった両親を恨んだ。
ミドリは反抗心からか、それまで通っていた学校や習い事のすべてを放り出すと、近所の子供たちを誘って遊び呆ける生活を送るようになった。
「父は私がそそのかしたのではないかと疑い、寮を訪れても妹に会えない日々が続きました」
といって美津は深いため息をついた。
妹にはまっとうに生きてもらいたい、と美津は深く願っている。どうにかミドリを引き取れないだろうか。すがる想いで美津は結城に相談をした。
「身請けという手段があるだろう。僕がその楼主と交渉してみようじゃないか」
ミドリはまだ遊女ではないが、前金に色をつけて支払えば楼主もきっと了承するだろうと結城はいった。
それからしばらくして楼主は意外にもミドリを手放すと約束をしたのである。
「楼主はなぜ妹さんを手放したのでしょうか」
と一葉は問うた。
「その色がとても濃かったからでしょうね」
と美津は言う。結城が楼主に支払う金銭の額を美津は知らないが、年季を加味しても相当の額だろうと想像する。
そして翌年の一月十三日早朝、結城は朝方に四番地へやってきて、年末までに楼主へ払う金を用意できることを告げると
そのとき邦子の脳裏には、早朝の寝床で聞いた不自然な人の声、朝に井戸端へくるはずのない美津が声をかけてきたこと、一葉が代筆を終えて美津を門前へ送った際にみせた彼女の涙、といったあの日の光景がありありと脳裏に浮かんだのである。
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