三十九

 すでに季節は残暑にかたむく明治三十年八月二十日。この年の夏は早朝でも気温が二十度を下回る日は少なく、さらには朝晩にかかわらず驟雨しゅうう多く、うっとうしく不快な日々が続いた。

 多喜はこのところの気候に加えて、針仕事で蓄積された疲労のためか、朝から晩まで寝床で過ごすようになっていた。

 そうなると、邦子はいままで多喜がになっていた債権者との交渉にも出向かねばならなくなった。

 この日、邦子は債権者の一人である奥田えいという老婆を訪ねるために家を空けていた。その要件は月末に支払う利息の期日を延ばしてもらうためである。

 道を歩く邦子の足は泥沼を進むかの如く重々しい。一葉が亡くなったことで家に入る金は少なくなり、元本の返済はずっととどこおっていた。お針の仕事で利息分はなんとか返済していたものの、この月は多喜に飲ませる薬代がかさみ、利息の返済にあてる金が用意できなかった。

 奥田は上野駅より以南いなん下谷練塀したやねりべい町という町に住んでいる。もとは練塀に囲まれた多くの武家屋敷が立ち並んでいた町域であったが、いまでは市井しせいしんが塀の内側に暮らす町へと変貌へんぼうしていた。

 町は狭い小路が碁盤ごばんの目のように張り巡らされている。この町の南を流れる神田川を越えれば、父の則義のりよしが晩年を過ごした淡路町の家も近い。

 奥田は樋口家とは則義の時代からの付き合いではあるが、当然ながら邦子の頼みに良い顔はしなかった。だが、ないそでは振れぬという邦子の執拗しつよう懇願こんがんに老婆はついに折れ、利息の返済は翌月に延びた。

 その帰路、邦子は広小路の四辻よつじで、正岡律が目の前を通り過ぎてゆくのをみた。邦子は律を小走りに追って、

「お律さん」

 と声をかけてから、彼女の細い肩に手を置いた。律は驚いた様子であったが、邦子の顔を見ると表情を緩ませた。

 去年の一月に上根岸の団子屋で別れてから、互いに顔をあわせるのは久方ぶりのことであった。

 春先に正岡子規がまず倒れ、それを追うように樋口一葉も倒れた。すると両家の妹たちは途端にせわしい日々をおくることになった。

 秋には一葉が夭逝ようせいした。死亡の通知は邦子によって正岡家にも知らされた。だが子規は病のために動けない。律は子規の代わりに樋口家へおもむいたが、時すでに遅く、葬列は家を出ていた。

 律を玄関先で迎えた多喜と藤は、家にあがって邦子を待つように勧めたが、それを断って香典を預けると逃げるようにして去っていった。

「なんだか身の置き場がなくって逃げてしまったんだけれど、あとで兄さんからは叱られたんよ」

 律は自身の不躾ぶしつけびた。

 そのあと子規から、ことの次第と詫びの言葉の書かれた葉書がきていたが、邦子がそれに返信をして以降は、両家の妹が互いの家に足を運ぶ機会は途絶えていた。

 律は今日、勧工場かんこうばの本郷館で買い物をしてきたところなのだという。邦子はそれを聞いて小首をかしげた。帰り道にしては遠回り過ぎるのである。

 本郷館は帝国大学のそばにあった。そこから律の家のある上根岸までは、北東に向かって歩んでいき、不忍池の横を通り抜け、日本鉄道の鉄路を越えればいい。これは以前に樋口姉妹が子規を訪ねたときとおなじ道筋である。

 ところが律はいま、不忍池のずっと南にある外神田と呼ばれる地域の広小路に立っている。つまり上根岸からはずいぶんと離れた場所にいるのである。

 律は邦子の言わんとすることを察してやり、本郷館で買い物をしたあと市中をぶらぶらと散歩をしている、ということを教えてやった。

 これは以前に、律の母八重が樋口姉妹に申し出ていた、「律のためにときどきでも根岸の家を訪ねてやってくれないだろうか」という懇願が根底にあるらしいが、それは先に述べたように一葉の病によってついえている。

 その八重の言葉は子規の脳裏にずっとこびりついていたようで、律を枕頭ちんとうに呼ぶと、

「あしはこのところ小康をたもっておる。お律も看護ばかりで気を休めることもできなかろう。ときどきでいいから散歩でもしてきたらどうか」

 と、外出を勧めてやったのである。さらに子規は少額ながらも小遣いを律に渡そうといってやる。歩き疲れたら団子の一本でも食ってこい――そのついでに土産も買ってこい――というのである。

 律は首を縦にふらなかった。彼女は肺病に倒れた兄の看護人として、故郷の松山から母と一緒に遠路はるばる東京までやってきたのである。

 いま、たしかに子規の病勢は落ち着きをみせている。しかし不意に悪くなるかもしれない。だから散歩なんかしている場合ではない、と律は訴える。

「あしはなにも蝦夷地えぞちにでかけろといっておるのではないぞな」

あにさんは私がちょっとの間、井戸端にでていても癇癪かんしゃくを起こすことがあるけん」

 たとえ妹の短い時間の散歩でも、子規は耐えられないだろうと律はいう。

「そりゃいいすぎじゃ」

 律の言葉に子規は渋面をつくる。頑なに首を縦にふらない律をみて、八重が割って入り、

「リイさんがいない間は私がノボをみますよ。それが不足であればきよしさんやへいさんがやってくるときにでもいいから出かけてきなさい」

 家には子規を慕う高浜虚子きょし(本名は清)や河東碧梧桐へきごとう(本名は秉五郎へいごろう)といった郷里松山の若者が頻繁ひんぱんにやってくる。だから律が散歩をするくらいの時間は十分にとれる、と八重はなんのなぐさめの手段を持たない寂しい娘に対して、微笑をたたえながら穏やかにさとした。

 律は渋々ながらようやくおれた。

 ――やはり最後は母親じゃな。

 と、強情な妹を言いくるめた八重をみつめて、子規はほくそ笑んだ。

 それから律は、子規の体調が良いときに限って散歩へ出かけるようになった。

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