四十

 律はこれから隅田川に架かる両国橋の様子を見にいくのだという。

「川開きの日に両国橋で事故があったでしょう」

 といって律は、数日前に市中を騒々しくさせた惨劇さんげきを教えてやるが、邦子はそれを知らなかった。

 事故は明治三十年八月十日の日暮れに起きた。

 その日、墨田川では両国の川開きがおこなわれており、その余興よきょうとして花火が夜空に向かって打ち上げられていた。

 やがて川辺は雑踏ざっとうに埋め尽くされた。次々と打ち上げられる花火をみようと、川辺からあふれた人々は、近くに架かる両国橋に群がった。

 そのとき、打ち上げられた尺玉のひとつが橋の上へ飛んでいき破裂した。火花は雨のように人々の頭上に降り注いだ。橋の上は濃煙のうえんに包まれ、火薬の臭いが立ち込めた。人々はあわてふためき、狭い橋の敷板を逃げ惑った。

 そのような狂乱のさなか、もたれかかる人間の重みに木製の欄干らんかん勾欄こうらん)は折れ、敷板の一部は崩れ去った。橋の上にいた数百人が暗がりの水面へ落ちていった。

 死者は数十名。そのほとんどは溺死できしであったが、川に浮かぶ小舟のへりに頭を打ちつけ亡くなったものもいた。

 事故は新聞の号外が刷られるほどの惨劇であったが、日々を針仕事に追われる邦子の耳には近来の時事は届かなかった。

 かたや律には子規がいた。彼は新聞社に所属している身であるから、病床にいながらもその枕元には市中の時事が頻繁ひんぱんに届けられる環境にあった。当然ながら律もその話題を耳にしている。

 が、数日ほど経つと続報は途絶えた。

 律は事故のその後が気がかりで、何度も子規に質問をしていたが、

「報じることがないんじゃろ」

 子規はそっけない返答を繰り返すばかりで埒が明かず、律は買物ついでに橋を見にいくことにしたのである。

「お邦さんはこれからどちらへ」

「用を済ませたので家に戻るところなんです」

「もし、お暇であればご一緒しませんか。橋はすぐそばですし、お邦さんともう少しお話をしたいわ」

 律は邦子を両国橋の見聞に誘った。

 邦子の暮らしぶりが陰鬱いんうつであったことが影響しているのかもしれないが、この思いがけない出会いに彼女の気持ちはふつふつと沸き立っていた。

 四番地の借家では留守を預かっている多喜が、奥田との交渉結果を待ちわびているが、そのようなことはすっかり忘れて、邦子は律に付き添うことに決めた。

 二人は広小路の近くを流れる神田川に沿って半里ほど歩いた。風が吹くと、わずかな潮の香りが鼻腔びくうをくすぐった。隅田川との合流点にたどり着いたのである。そこから一丁ほど下流にみえる橋が両国橋であった。

 この橋は明治八年に明治政府の意向によって西洋式の木橋として架け替えられたもので、橋の長さは九十六間、横幅は三間半あり、橋脚や欄干の意匠は同時期に架けられた吾妻橋とよく似ている。

 川辺には舟宿や茶屋などがひしめき、桟橋には小舟が数艘すうそうつながれているのがみえる。

 橋に近づくと警官が立ち番をしていた。邦子と律の姿に気付くと声をかけ、橋は大工の作業が終わるまでは渡ることはできない、といって橋の方を指さしてみせた。

 その橋の上には印半纏しるしばんてんを着た数名の男たちがいて、木材にかんなをあてたり、のこを引いたりしている。警官がいうには事故で抜け落ちた欄干と敷板を修繕しているのだという。

「いつごろ通れるようになるのですか」

 と邦子が問うと、

「大工たちはおとといから作業を始めているんだが、いつになることやら」

 警官はあきれていう。

 と、大工らの笑い声が聞こえた。その声に警官はさげすむように声の方をみつめ、

「まったくあいつらは不謹慎ふきんしんな奴らだよ。ちょっと前に事故があったことをすっかり忘れているんだろう。それでも仕事が早ければいいが休憩ばかりとりやがる」

 といって嘆息たんそくする。

とむらう場所はありませんの」

 律は警官に問うた。警官は首をふった。先日まで川辺にあったが、いまはもう片付けられてしまったのだという。

「事故でどなたかを亡くされたのかな」

「いいえ」

 律は詳細は語らずに短く答えた。

「そうか、事故のあと数日は多くの人が訪れていたよ。でも、いまはこの通りさ」

 辺りをながめまわしてから警官は悲しげに笑った。

 邦子と律は川辺に移動し、橋の横っ腹を眺めた。橋は十日前に起きた事故の痕跡こんせきをあらわすように、敷板の一部がなくなっており、欄干は真ん中から五、六間ほどごっそりと抜け落ちているのがよくみえた。

「のどかですねえ」 

 と、邦子がいうのも無理はなかった。事故の轟然ごうぜんたる叫喚きょうかんは、いまは緩やかな川の流れにかきけされ、川辺は晩夏ばんかを楽しむように夏草が生い茂り、虫の音も聞こえるからである。

「本当に事故があったんじゃろか」

 律はつぶやいた。

「あれをみてください」

 邦子が指さす先に小石が不自然に積まれている一角があり、かたわらには枯れた桔梗ききょうの花が一輪おかれていた。

 おそらくはここが弔いの痕跡であろうと思い、二人はしばらく手を合わせた。

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