十五

 翌十一日には、鴎外おうがいの返信が一葉のもとに届けられた。その内容は依頼を引き受けてくれたことへの謝意と依頼主が面会の日付を了承したことに加えて、彼の家の住所が記載されていた。

 住所は下谷区上根岸町八十二番地とある。下谷区は本郷区の東側に隣接する区である。そして上根岸町は上中下の冠を持った根岸三町のうちの一町である。

 一葉は、過去に邦子と根岸の町を散策したことがあるから、見知らぬ土地とはいえないが、家から歩いていける距離であることはわかっている。

(根岸であれば、歩いて行けそうね)

 相手の家が近いということは、節制につとめている一葉を喜ばせた。遠ければ人力車を使わざるを得ないからである。一葉は余計な出費がなくなったと胸を撫でおろした。

 さて、森鴎外に一葉との面会を依頼した新聞記者の正岡とは、名を常規つねのりと言い、ほかに子規しきという雅号を持つ俳人でもあった。

 その号は病をきっかけとしてつけられたという。病とは肺結核である。子規はどこかで他者の飛沫ひまつに含まれた結核菌を肺に取り込むと、ある時期に発症した。

 肺結核には特徴的な症状としてせきたん胸痛きょうつう喀血かっけつなどがある。結核菌は宿主である子規に喀血させることで、彼に病を自覚させた。

 生物の分類上において、カッコウ(郭公)の仲間となるホトトギス(杜鵑)の口腔こうこうは赤い。子規は喀血し、口中を血に染めた自分と杜鵑を重ねて、杜鵑の別名である子規と号して、それにまつわる俳句をその日の夜更けにいくつか詠んでいる。

 子規は慶応三年九月十七日、伊予松山にうまれた。

 その子規が故郷の松山を立ち、上京したのは明治十六年のことである。子規が東京に出たのは学問のためであり、旧松山藩久松家のおこした給費をたまわりながら勉学に励んだ。

 東京での生活を支えたのは、のちに子規が所属する日本新聞の社長をつとめる陸羯南くがかつなんである。羯南は子規の叔父である加藤恒忠つねただに、東京での生活の世話を依頼されたのであった。

 明治二十三年、子規は帝国大学文科大学の哲学科に進むが、途中で国文科に転科している。

 子規は好奇心が旺盛おうせいであった。ときに哲学に浸り、小説に凝り、野球に躍動やくどうし、俳句を詠んだ。

 帝大に進んだことで、将来は政治の舞台に立てたかもしれないし、叔父の加藤恒忠のように外交官になりえたかもしれない。

 その子規は明治二十一年に最初の喀血をし、翌年にも喀血した。

 喀血は子規の人生を大きく変えるきっかけとなった。子規は二度の落第により大学を退学したのである。それを聞いた陸羯南は、子規に日本新聞へ入社するように勧めてやった。子規はその勧めにのった。

 子規は政治家や外交官ではなく、新聞記者の道を歩み始めたのである。おなじ頃に松山から子規の病を心配する母と妹を東京へ呼んだ。東京の地で子規は人生の成すべきことを果たそうとしている。

 正岡子規は、


  柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺


 という日本人であれば誰もが知る有名な俳句を詠んだがために、我々が生きる現代では新聞記者という肩書は添え物のような扱いで、彼は俳人や歌人、または言語芸術の研究者と紹介されることが多い。

 だが、子規の暮らしを支えたのは新聞記者として得ていた給料であったし、文芸評論の発表の場が与えられたのは新聞「日本」の紙上であった。

 さらには従軍記者にもなっている。前年の明治二十八年四月、日清戦争の従軍記者として遼東りょうとう半島に出征していたのである。子規はその地で森鴎外と会っている。二人は俳論を交わし交友を深めたあと、日本での再会を約束した。

 子規が遼東半島にいた時期、戦争の砲火はすでに止んでおり、日清両国は戦後処理へと移行していた。

 五月になると子規は多少の失意を抱えて遼東半島を離れ、船で帰国したが、その船中で大量の血を吐いた。

 帰国後は神戸の病院や故郷松山の地で療養につとめたのち、東京に戻ったのは明治二十八年十月三十日のことである。

 翌年の一月三日、子規の開いた句会に鴎外が参加していた。鴎外は遼東半島での子規との約束を果たしたのである。子規が一葉のことを聞いたのは、この日のことであった。

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