十六

 樋口一葉と妹の邦子が丸山福山町四番地の借家を出発したのは、一月十三日午前十時半のことである。

 狭い路地を抜け、門前にでると、姉妹は北に向かって表通りを歩き始めた。

 太陽はいただきの近くにあるが町筋は閑散としている。それは夜間の顔たるこの町の人々が、いまだ寝床についているからであった。

 丸山福山町の界隈かいわいはひっそりとしていて寒々しさに満ちあふれていた。ときおり、姉妹のかたわらを見知らぬ人が通り過ぎてゆくが、夜の賑わいを知る二人にとっては物悲しい情景にうつった。

「寒いわねえ」

 一葉は身を震わせ、小柄な体を縮めるようにして歩いている。その横を歩く邦子は、

「そうねえ」

 と相槌あいづちを打つが、彼女は寒さを気にかける様子はない。邦子は冬の早朝に寝床から抜け出せず苦労しているが、ひとたびそこから抜け出して汗をかいてしまえば、寒さはさほど気にならなくなるらしい。

 町のなかほどに達すると表通りをはずれて脇道にはいった。道は東の崖の方まで伸びている。その突き当りには新坂(福山坂)という崖上に通じるつづら折りになった坂道があり、駒込西片町の屋敷通りにつながっていた。

 屋敷通りには旧旗本の武家屋敷が多く立ち並ぶが、そのなかでもひときわ大きな棟門むなもんと高い練塀ねりべいに囲まれた屋敷が建っている。これは旧備後福山藩主阿部家の本邸で、この町の中心ともいうべき場所であり、門前は広場となっていた。

 姉妹はこの町の東にある帝国大学の方へ向かって歩みを進めてゆく。上根岸町には大学の構内を通り抜けて、上野公園にでるのが近道であった。

 阿部邸の門前を通り抜け、そこから一丁ほど歩くと屋敷通りは途切れた。

 駒込西片町の東端は浅い谷となっていて、一本の木橋がその谷を跨ぐように架けられている。隣町の本郷森川町にでるには、この橋を渡らねばならなかった。橋のたもとの親柱には「清水橋」という銘板が打たれているが、近隣の人々は橋のことを総じて「空橋からはし」という別称で呼んでいる。

 その橋の上で、着物にはかまを履いた書生たちが橋の下をのぞき込み、誰かに向けて、

「こっちをみろ。こっちだ」

 と叫んだり、手を叩いて笑っている。一葉はその様子をみて思わず吹き出した。

「どうしたのよ」

 邦子は不思議そうに一葉の顔をのぞき込むが、一葉は邦子の問いかけには答えず、急ぎ足で書生のそばを通り過ぎていった。そして、橋を渡りきると、

「昔ね、この橋の下を通ったときに、欄干らんかんからのぞいていた書生たちにからかわれたことがあったの。もちろん別人でしょうが、あのときと余りにもそっくりでね」

 一葉は笑いながら答えた。

「なにをしたのですか」

「あの日は暑くてねえ。汗まみれの顔をみられるのが嫌だから、日傘をさして顔を隠すように歩いていたのだけれど……それが気に障ったのかしらねえ」

 一葉は片手で傘を持つ仕草をしてみせた。

「くだらないわねえ。あの書生さんたち、あんなことをしていても、ゆくゆくは議員や軍人になるのでしょう。おかしなものねえ男っていうのは」

 といって邦子は顔をしかめた。

「男に限ったことではないわよ。性別に限らず、ひとつの群れができれば馬鹿なことをしてしまう人が一人や二人いるものよ。萩ノ舎はぎのやに通う御令嬢だって、花見にいけばその場の雰囲気に踊らされて桜の枝を折ってふざけあうのですから」

 姉妹に笑みがわずかにこぼれた。空橋を抜ければそこが本郷森川町である。町の名は変われども、景色は変わらず、武家屋敷が道筋に立ち並んでいる。それもそのはずで、この町は旧三河岡崎藩主本多家の所有している土地で占められていて、町の概況がいきょうは西隣の駒込西片町となんら変わらない。

 丸山福山町から上根岸町までは三キロほどの道のりである。

 姉妹は道半ばとなる帝国大学に立ち入り、書生らを横目に構内を抜けると、そこで本郷区は終わり、隣の下谷区にはいった。

 姉妹の目の前には上野公園地の不忍池が広がっている。池のほとりを北に向かって歩いた。池畔ちはんの茶屋からは団子の香ばしい匂いが漂ってきて、邦子の鼻腔びくうをくすぐった。数名の客が茶屋の縁台に腰かけて焼き団子をほおばっている。邦子はそれをみながら、

「さすがに疲れましたねえ」

 と一葉に聞こえるように声をらしたが、

「もう少しだから辛抱なさいな」

 といったきり一葉は黙ってしまったので、邦子はそれに従うほかなかった。

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