十七
上野公園を通り過ぎ、上野山の坂を下ると目の前に鉄道の線路がみえた。この鉄の道を越えれば上根岸町である。
姉妹が踏切にたどり着いたとき、鉄路と交差する道の両側は竹の
踏切番は踏切の
踏切番は姉妹に気付くと番小屋からでてきて、
「汽車がくるから少し待っててなあ」
と叫んで上野駅の方角を指さした。踏切番のいうように、三丁ほど先に汽車がみえ、
汽車は
邦子はその音を聞くと急いで袂から
やがて踏切の周辺を鋼鉄の
踏切番は汽車を見送ると機敏に動きだした。道を閉じている桿を持ち上げると、その棹で鉄路側を封じていった。その作業を終えると、
「さあ、姉さんたち通っていいぜ」
といって踏切番は番小屋に戻っていくと、机に置かれた握り飯を手につかんで豪快にほおばった。どうやら踏切番は昼飯の途中であったらしい。
「行きましょう」
といって邦子は踏切を渡ろうとするが、一葉は何度か乾いた
「どうしたの」
邦子は不安になって一葉の顔をのぞきこむが、
「少し煙を吸い込んでしまったみたいね」
一葉は苦しげにいう。
「大丈夫ですか」
「ええ、平気よ」
というが、一葉は咳を繰り返す。
「ちゃんと覆わなかったんでしょう」
邦子は一葉の狭い背中をさすってやった。しばらくするとようやく咳はおさまり、
「そうね、つぎからは注意しますよ。隙間があったのかもしれないわ」
といってから一葉は微笑んでみせた。
「渡ってしまいましょう」
邦子は一葉の手を引いた。踏切を超えれば根岸である。町に足を踏み入れてすぐ、
「菊坂に住んでいた頃、この辺りを散歩しましたね。御行の松をみたあとにお寺の住職さんにお茶をいただいたのを覚えていますか」
邦子は過去を懐かしむようにいった。一葉はそれにうなずきながらもキョロキョロと辺りを見回している。
下谷区上根岸町は百三十一の番地で区切られている。一葉は目的地となる八十二番地がどこにあるのか見当がつかないでいる。
ただし、幸いにも町筋にはたくさんの商店が立ち並んでいたので、片っ端から場所を聞きまわっていれば手がかりはすぐにつかめるだろうと考えたが、それは思いのほか難航した。
この町の店で働く人々は町名のあとに続く番地には無関心であった。当然ながら、「正岡さんという人なのだけれど」と名前をだしてもかぶりを振るだけである。
昼時で忙しいというのもあるだろう。とくに飯屋はその傾向が強く、客でないことがわかると露骨に嫌な顔をした。
そのうちに邦子は、
「これなら町中を歩き回って探した方が早いですね」
などと愚痴を言いだし、その言い草に一葉は顔をしかめた。
番地の手がかりをつかめたのは、町筋から外れた小路にあった駄菓子屋の老婆からである。老婆がいうには正岡という名は知らないが、八十二番地とは旧加賀藩主前田家の土地であり、屋敷が建てられているという。
ただし、土地のすべてを屋敷として使っているわけではなく、一部の土地に家を建てて、それを庶民に貸している、ということを教えてくれた。
「そこの道を進むと、右手に何軒か
といって菓子屋の老婆は道のむかいにある横丁を指さした。町の人は、その
鶯横丁は、ひと足歩くごとに泥水がにじむような水はけの悪い道で、いつも黒々と湿り気を帯びていた。道はひとたび雨滴に
この日、もし雨が降っていたのなら、姉妹は歩くのを
姉妹は鶯横丁に足を踏み入れた。横丁は半丁ほど先まで土色の
黒板塀は前田家の土地――つまりは八十二番地――を示す境界線となっているようである。子規の家は、この境界線の角地にあたる場所に建っていて、家の横には裏手に向かって幅の狭い路地が伸びている。
邦子は門前に「正岡」と書かれた表札をみつけると、
「なっちゃん、ありましたよ」
といって
「まって」
一葉は邦子を呼び止めた。
「なんですか」
「裏手にいって様子をみましょう」
一葉は路地を指さした。邦子はうなずいてみせた。それは一葉の事情を察してのことである。一葉には苦い過去があった。
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