十八
一葉が
「半井という人は色好みで、信用のならない人だ」
という噂が広まった。その話に根拠はなかったが、いつの間にやら
一葉はそれに
だが、一度こびりついた
「あの半井という人はね。あなたを自分の将来の妻であると
と助言した。この話も中島がどこかで聞いた噂話にすぎないが、一葉は師の助言を受け入れ、半井との交際をやめることにした。
だが、この件に関しては一葉自身も軽率であったといえる。彼女は半井から小説の指南を受けていることを、萩ノ舎の人々に包み隠さず口外していたのである。男女の師弟関係というものは、ときに人々に興味を与え、そこには火種ができ、噂話は醜聞となって燃え上がる。
それに半井は口が軽すぎた。彼にとってみれば、若くして戸主になった一葉への哀れみから思わず口したのであろうが、知人との談笑中に、
「僕は彼女の
などと口走っていた。半井の軽口も火種となるには十分なものであった。
一葉と半井には醜聞めいた出来事はまったくなかったが、その要因を二人はつくっていたのである。噂というのは
このような過去の経験と緑雨の
さて、樋口姉妹は子規の家の裏手にでようと路地を進んでいた。
家の路地を囲う塀は前田家を象徴する
家の裏手に回り込むと裏口となる木戸がみえた。その
老女が裏手にあらわれた樋口姉妹に気付いたようで、
「あの娘さんたち、ノボの客じゃろか」
と
「ほうじゃね。客がくるといっておった」
と返事をしてから、
「樋口さんですか」
若い女は声を張り上げて、木戸の前に立つ姉妹に呼びかけた。一葉はこれに大きくうなずいた。そして自分に声をかけてきた若い女が正岡家の者であると察し、
「正岡常規さまは御在宅でしょうか」
と尋ねた。
「おります」
若い女はそういうと微笑した。
「リイさん、連れていっておあげな」
老女は洗濯の手を休めずにいった。リイさんと呼ばれた若い女はそっと立ち上がり、水に濡れた手のひらを手巾で拭いながら、
「こちらからどうぞ」
といって裏口から庭先へはいっていった。姉妹は庭から手招きをするリイさんのあとを追った。
庭は南西に向いている。丸山福山町四番地の借家に比べればたっぷりと日差しの通る庭であった。路地からは竹垣に
リイさんとは正岡子規の妹で律という。彼女と洗濯をしていた老女は母親の
八重は子規のことをノボと呼び、律のことをリイさんと呼んでいる。
ノボとは子規の幼名のひとつであり、はじめは
律についても同様であった。八重は娘の律が幼い頃からずっとリイさんと呼んでいる。リンリンという小振りな鈴の音のような可愛らしい響きを、八重はいたく気に入ったようであった。
しかし、年端もいかぬ幼子ならまだしも、物心のついた律には気恥ずかしく、
「人に聞かれると恥ずかしいんよ」
と一度だけ八重に、「リイさんと呼ぶのは止めてほしい」と頼んだこともあったが、
「なにをいうね。親にとってみればいつまで経っても子は子でしょうに」
と律の頼みを聞きいれることなく、結局いまに至るまで八重はリイさんと呼び続けている。
その律が庭先で、「兄さん」と何度か室内に向かって呼びかけているが返事はない。
「どこいったんじゃろ」
つぶやくようにいうと、
「……
姿はみえないが、男の声が家の中から聞こえた。
「兄さん、お客さまぞな」
律が声の主に呼びかけると、
「聞こえとる」
と言い、しばらくすると、庭に面した縁側の先の角から、まばらで短い
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