十八

 一葉が半井桃水なからいとうすいから小説の指南を受けていた時期に、

「半井という人は色好みで、信用のならない人だ」

 という噂が広まった。その話に根拠はなかったが、いつの間にやら萩ノ舎はぎのやの中にも伝播でんぱし、さらに曲解され、「一葉と半井は婚約をしている」という誤った解釈がなされるようになった。

 一葉はそれに憤慨ふんがいした。半井との交際はあくまでも師弟の関係であった。彼女は困窮こんきゅうする家計を助けようと小説を書き、半井にはその教えをうたにすぎなかった。

 だが、一度こびりついた醜聞しゅうぶん容易よういぬぐい去ることはできず、一葉は思い悩んだ末に和歌の師である中島歌子に相談することに決めた。当然ながら、噂は中島の耳にもはいっていた。噂を必死に否定する一葉に中島は、

「あの半井という人はね。あなたを自分の将来の妻であると吹聴ふいちょうしているそうだよ。もし、結婚を約束していないのであれば、交際はやめるべきですよ」

 と助言した。この話も中島がどこかで聞いた噂話にすぎないが、一葉は師の助言を受け入れ、半井との交際をやめることにした。

 だが、この件に関しては一葉自身も軽率であったといえる。彼女は半井から小説の指南を受けていることを、萩ノ舎の人々に包み隠さず口外していたのである。男女の師弟関係というものは、ときに人々に興味を与え、そこには火種ができ、噂話は醜聞となって燃え上がる。

 それに半井は口が軽すぎた。彼にとってみれば、若くして戸主になった一葉への哀れみから思わず口したのであろうが、知人との談笑中に、

「僕は彼女の入婿いりむこになってもいい」

 などと口走っていた。半井の軽口も火種となるには十分なものであった。

 一葉と半井には醜聞めいた出来事はまったくなかったが、その要因を二人はつくっていたのである。噂というのは随分ずいぶんと厄介なもので、真実や虚偽きょぎが人を介すごとに混ざって誇大されていき、原型を留めずに伝達されてしまうのである。

 このような過去の経験と緑雨の示教しきょうとが頭の中に残っていたために、一葉は慎重な行動をとるようになったのだろう。

 さて、樋口姉妹は子規の家の裏手にでようと路地を進んでいた。

 家の路地を囲う塀は前田家を象徴する黒板塀くろいたべいではなく、建仁寺垣けんにんじがきによって囲まれている。竹垣は姉妹の背丈よりも高いが、庭から生えるかししいなどの樹冠はみえる。家屋の軒が途切れた位置からみて、竹垣のむこうは庭となっているのであろう。

 家の裏手に回り込むと裏口となる木戸がみえた。その三間さんけんほど先に井戸があって、老女と若い女がしゃがみ込んで洗濯をしているのがみえた。

 老女が裏手にあらわれた樋口姉妹に気付いたようで、

「あの娘さんたち、ノボの客じゃろか」

 とかたわらの若い女に聞いた。若い女は洗濯の手を止めて裏口の方を眺めると、

「ほうじゃね。客がくるといっておった」

 と返事をしてから、

「樋口さんですか」

 若い女は声を張り上げて、木戸の前に立つ姉妹に呼びかけた。一葉はこれに大きくうなずいた。そして自分に声をかけてきた若い女が正岡家の者であると察し、

「正岡常規さまは御在宅でしょうか」

 と尋ねた。

「おります」

 若い女はそういうと微笑した。

「リイさん、連れていっておあげな」

 老女は洗濯の手を休めずにいった。リイさんと呼ばれた若い女はそっと立ち上がり、水に濡れた手のひらを手巾で拭いながら、

「こちらからどうぞ」

 といって裏口から庭先へはいっていった。姉妹は庭から手招きをするリイさんのあとを追った。

 庭は南西に向いている。丸山福山町四番地の借家に比べればたっぷりと日差しの通る庭であった。路地からは竹垣にさえぎられていてみえなかったが、木々のほかには名前のわからない何種類かの冬草が茂っていた。

 リイさんとは正岡子規の妹で律という。彼女と洗濯をしていた老女は母親の八重やえである。

 八重は子規のことをノボと呼び、律のことをリイさんと呼んでいる。

 ノボとは子規の幼名のひとつであり、はじめは処之助ところのすけとつけられたが、のちにのぼるとした。本名は正岡常規つねのりである。母の八重は柔らかな響きを持つ幼名の方を好んで呼んだ。

 律についても同様であった。八重は娘の律が幼い頃からずっとリイさんと呼んでいる。リンリンという小振りな鈴の音のような可愛らしい響きを、八重はいたく気に入ったようであった。

 しかし、年端もいかぬ幼子ならまだしも、物心のついた律には気恥ずかしく、

「人に聞かれると恥ずかしいんよ」

 と一度だけ八重に、「リイさんと呼ぶのは止めてほしい」と頼んだこともあったが、

「なにをいうね。親にとってみればいつまで経っても子は子でしょうに」

 と律の頼みを聞きいれることなく、結局いまに至るまで八重はリイさんと呼び続けている。

 その律が庭先で、「兄さん」と何度か室内に向かって呼びかけているが返事はない。

「どこいったんじゃろ」

 つぶやくようにいうと、

「……かわやじゃ」

姿はみえないが、男の声が家の中から聞こえた。

「兄さん、お客さまぞな」

 律が声の主に呼びかけると、

「聞こえとる」

 と言い、しばらくすると、庭に面した縁側の先の角から、まばらで短い口髭くちひげをたくわえた散切ざんぎり頭の男が顔をみせた。

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