十四
二日後の一月十日夕刻、
「なんだかおかしいのよ」
と、首をひねった。一葉がその理由を問うと、車夫はいま渡した手紙を読み終えたら、八日に届けた手紙も含めてすべて返却して欲しい、といわれたのだという。
「それになっちゃんの手紙も渡されたのよ」
といって一葉の手元を指さした。一葉が握っている封書は二通が重ねられていて、一通は二日前に彼女が緑雨に宛てた封書であった。
「車夫をあがり口で待たせているので、すぐに読んでね」
といって邦子は書斎をでた。
一葉はさっそく手紙を読み始めた。緑雨の手紙は半紙四枚に渡る長いものであった。まず緑雨は礼を欠いたことを詫びたあと、本題へとつなげた。
一葉の書いた小説「わかれ道」は、題材としては「にごりえ」に勝るが、文章の乱れから「にごりえ」より数段劣る作品であると緑雨はいう。なぜ緑雨はそのように解釈したのか。
明治二十八年九月に『
その内容は、一葉が酌婦たちから教えられたなまめかしい会話から着想を得ていて、読んだ者のなかには、作者は銘酒屋の酌婦なのではないか、という噂が立つほど現実感のある作品であった。文壇はこの一作により、一葉を手放しで
そうなると必然、一葉への執筆依頼は増えていき「わかれ道」については
斎藤緑雨の指摘は的確であった。
一葉が前年の十二月中に書き上げた小説は三篇になる。まず『文學界』の「たけくらべ」(第十三回と第十四回)を二十日までに成稿し、並行して執筆していた『国民乃友』の附録「わかれ道」を二十一日までに書き上げると、続けて『日本乃家庭』の附録「この子」を数日かけて完成させた。
この期間、編集者から原稿を催促する手紙が何通か一葉のもとに送付された。催促の理由は、師走のために印刷所が早じまいするためである。その前に原稿をあげろ、と編集者はいうのである。
みずから遅筆を認識していた一葉は、毎日つけていた日記も書けないほどに、小説の執筆に追われていた時期であった。
緑雨は文壇の内情を知らないであろう一葉に、
「いまの批評家たちは目を閉じたまま小説を読み、それを品評しているにすぎない」と彼らを
文壇の人々とは、そのような無知な連中ばかりである、と緑雨は断罪する。そうして緑雨は一葉に、彼らの
筆はさらに続いた。
いま、一葉の住まいは彼女を求めて多くの人々が集う場となっている。その来訪者を詳述すると、まずは文壇の人々で、記者や編集者、作家や批評家である。続いて、週に一、二度ほど一葉から和歌や古典の講義を受けに来る人々。これは姉妹の友人や知人で占められている。
ほかには親戚、代筆を頼みにくる酌婦たち、愛読者と自称する人々等々……。それにこちらからは願い下げたい借金取り。
緑雨は、それらの人々からとくに文人との交際には注意をしろ、と教える。文人とは一般的に詩文を嗜む人という意味を持つが、この場合は作家や批評家と
その文人らは、
このことが文壇の人々から
緑雨が一葉に手紙を書いたのは彼の親切心であり、文壇に一歩足を踏み入れ右も左もわからぬ一葉に対して、彼の知っている内情を忠告したかったのであろう。
この手紙の文末に、
「ご覧になったあと、八日の手紙も合わせて車夫に渡してください。君からの手紙も返します。世間というのはうるさいですから」
と、邦子が車夫からいわれたことが書いてあった。
緑雨が交際に慎重なのは、文壇に噂が流れることを恐れているからである。車夫を使って一葉に手紙を送ったのも、一葉が送った手紙を返却したのも、慎重に検討した結果なのであろう。
一葉はいままで知ることのなかった文壇の内情を知ると、
緑雨は
「君が家に行きて菓子をこひしに
これは家にやってきた客が菓子を欲したから、邦子が菓子屋へ行ったという他愛のない話である。
だが、これをみかけた新聞記者は、筆を持って針小棒大にして世間にばらまくだろうと緑雨は新米の文人に忠告している。
彼のいうことが文壇の真実であるとすれば、一葉が正岡の家を訪ねれば、翌日にはそのことが風聴されてしまう。悪意ある新聞記者というのは、事実をありのままに書くのではなく、誇大に脚色して記事にする癖がある。
次第に一葉の脳裏は不安に満たされ、それは恐怖となり、
(やはり断ればよかった)
と後悔の念を抱くが、すでに鴎外は一葉の送った手紙を読んで、新聞記者の正岡に連絡している頃であろう。
一葉は胃に鈍い痛みを感じた。
しばらくすると邦子がやってきて、
「車夫がまだですかって
と心配そうにいった。一葉は不意に思い立ち、
「くうちゃん、手紙を書くから準備をしてくれない」
と邦子に筆と
「返事を書くのですか」
「いいえ、写筆をしておきたいの」
「でも車夫が……私、もう
と邦子は眉をひそめるが、
「すぐに済みます」
一葉は文机の引きだしから半紙を数枚取りだすと、それをみた邦子はだまって
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