十三

 一葉の心を惑わせているのは、道徳や貞節といった倫理観である。この時代には、現代よりもずっと濃厚にそのような観念が残っているから、軽々しく男の家を訪ねることは避ける傾向にあった。

 一葉は筆を取れず、そのことばかりを延々と考え続けていた。そうしているうちに茶ノ間にいた邦子がやってきた。

夕餉ゆうげの買い物にいってきます。手紙を書き終わっているなら郵便箱にいれてきますよ」

「もうそんな時間なの」

 一葉は置き時計を手に取り時刻を確認すると、時計の針は午後四時を回っていた。

「時が経つのは早いですねえ」

 邦子は文机ふづくえに置かれた封書をつかもうとするが、

「まって、まだ返事を書いていないのよ」

 一葉はそれを手のひらでさえぎった。

「あら、そうなの」

 邦子は一葉の顔に視線をうつすと、その顔のほおからひたいにかけて墨の跡が点々とついているのが目にはいった。それに驚いて、

「顔が汚れていますよ。少しお待ちなさい」

 といって邦子は台所へゆき、濡れ手ぬぐいを持って書斎に舞い戻ると、一葉の顔にこびりついた墨をぬぐってやった。

 一葉は緑雨りょくうへの返事は苦もなく書き終えたが、鴎外おうがいの手紙についてはどう書いてよいかわからず難儀している、と妹にこぼす。

「記者であるならば小説の依頼ではありませんか。近頃そういう方が頻繁ひんぱんにやってくるじゃないの」

 邦子は首をかしげていうと、

「それも考えたのよ」

 一葉は妹の意見に同調するようにうなずくが、表情を見るかぎり、いまだに落ちないといった様子である。

「なにか気になる点でもあるのですか」

「手紙が二通きたでしょう。細かな点で差異はあるにせよ、結局のところ私に訪問して欲しい、ということなのよ」

 邦子はうなずいた。

「それが問題なの」

 一葉が問題としているのは鴎外の手紙である。すでに緑雨には「男ならぬ身であるから手紙でのやり取りにしたい」という返事を書いて封におさめている。

 緑雨は一葉に忠告をしたいという要件であるから、手紙の往復で達成することができるし、そもそも緑雨自身が二種の案を提示し、それに従って一葉が決めたのである。これに問題はないだろう。

 が、鴎外の要件ではそのようなやり取りはできない。なにせ手紙には見ず知らずの新聞記者を訪ねてほしい、という一択しか書かれていない。

「私に興味があるという言葉をどうとらえればよいのか」

 この一文に頭を悩ませていると一葉はいう。

 ならば依頼を断ればいいのだが、すると今度は鴎外と美濃子の存在が脳裏をちらつくのである。

 一葉は鴎外の手紙を読んだあとで、「人のつながりとはなんと愉快ゆかいなものだろう」と感じた。相手の希望を叶えてやれば喜ばれるだろう。

 しかし、その相手は男である。時間が経つにつれて今度は相手を訪ねることは軽率すぎやしないかと感じ始めた。一葉はいま、目まぐるしく回る輪廻りんねうずから抜けだせない状況にある、と邦子に訴える。

 やむを得ず、邦子は姉を悩ませる鴎外の手紙を読むことにした。

 ……。

 邦子は手紙を読み終えた。

(たしかになっちゃんのいう通りだわ)

 手紙に書かれた鴎外の依頼は受け手によって、どのようにでも解釈できる曖昧あいまいな文面であった。例えばこれが、新聞記者ではなく妓楼ぎろうの主人であれば、一葉を遊女に仕立て上げようと考えている、と読み取ってもおかしくないだろう。

(でも……)

 一葉はまがりなりにも作家である。前年には讀賣よみうりや毎日といった新聞紙上にも小説を寄稿している。

「考えすぎですよ。私には興味があるという言葉はなっちゃんの小説を読んでのことだと思いますよ」

 邦子はこの正岡という新聞記者は、一葉に執筆を頼むために面会を希望しているのだろうと助言する。

「どこの新聞社かはわかりませんが、仕事の話を聞きに行くのであれば軽率ではないでしょう。それほど深刻に考えることでもないわよ」

 邦子は手紙を一葉に返した。

「でもねえ……やはり断ろうかしら」

 一葉は頭を抱えてしまった。

「それほど心配であるなら、私が付き添いますよ。そうすれば他人からは散歩か買い物に出ているようにしかみえないでしょう」

 邦子は胸を叩いて快活に笑った。

 一葉には妹の立てた計画の代替案が浮かばず、仕方なくその場の雰囲気に流されて鴎外への返事を書き始めた。

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