十二

 斎藤緑雨りょくうと森鴎外おうがい、どちらも一葉にしてみれば、名前のほかは人づての評判を聞いた程度の知識しか持ち合わせていない。だが、彼らの書簡に対する一葉の感じ方には大きな隔たりがあった。

 緑雨は文壇での評判が悪かった。一葉もそれを知っていたので、彼の書いた手紙の内容には興味を持ちつつも、同時に不安を抱いている。

 しかし、鴎外の手紙については、それを読み終えたあとにほおを緩めて、

(人のつながりとはなんと愉快ゆかいなものなのだろう)

 と、しみじみとした情感に浸っていたのである。

 萩ノ舎はぎのやに田中美濃子という一葉の姉弟子がいる。彼女は安政四年うまれの出雲国出身で、一葉より十五歳年上であった。家族は子が一人いるが、夫とは死別している。

 この美濃子は師匠の中島歌子から許可を得て、梅ノ舎うめのやという歌門を開いているが、引き続き萩ノ舎の稽古にも参加していた。

 一葉は年の離れた友人である美濃子と図書館に行ったり、蕎麦そばを食べたり、ときに梅ノ舎の例会に出席したりと交流を重ねていった。

 その美濃子が中島と数日ほど鎌倉へ旅行にでかけ、帰京すると旅先の思い出を紀行文として書き残した。彼女は機会があれば「鎌倉紀行」と名付けた旅行記を雑誌に掲載させたいと思っていたが、その好機は訪れなかった。

 風向きが変わったのは、一葉が「鎌倉紀行」の原稿を美濃子から借りて読んだことにはじまる。

 それからしばらくして、一葉の家に平田禿木とくぼくという男がやってきた。彼は第一高等学校に通いながら雑誌『文學界』の編集に携わっている。

(平田さんに頼んでみようかしら)

 一葉は平田に「鎌倉紀行」の掲載を依頼するが、彼は渡された原稿を一読いちどくするなり、

 ――文學界むきではないなあ。

 と考え、断ろうと顔を上げるが、そこには真剣なまなざしで平田をじっとみつめる一葉の顔があった。

 結局、平田は一葉の頼みを断れず、その回答を森鴎外に託すことにした。この日、彼は鴎外に会う約束をしていたのである。

 そうして平田から鴎外に話が伝わり、彼が主宰する雑誌に頁の空きがあることを知ると、原稿は鴎外に託された。

 このようなことがあって美濃子の執筆した「鎌倉紀行」は、明治二十七年七月に発行された『しがらみ草紙』の第五十八号に掲載された。年齢の離れた友人の喜ぶ顔に、一葉も心の底から晴れ晴れしい気持ちになった。

 鴎外と一葉の間には、このように触感のないつながりがあった。

 この頃、四番地の借家には種々様々な人々が訪れていて、その中には新聞記者もいた。彼らは一葉に小説の原稿を依頼しにやってくるのだが、鴎外の知人で新聞社に勤めているという正岡も、やはり彼らとおなじ要件であろうと一葉は思っている。

 が、一葉はこうも思った。小説の依頼であれば、わざわざ森鴎外に仲介してもらおうとするだろうか。そうなると小説の依頼ではないのかもしれない。

 一葉は手紙を読み終えたあと、鮮やかによみがえった過去の出来事に心を揺り動かされたが、冷静になって考えると理解しづらく言葉の足りない手紙であった。

 こういうものは断ってしまえば楽になるのであろうが、美濃子の笑顔が一葉の脳裏に浮かび、心は揺れ動くのであった。

 実に奇妙な手紙である。短い手紙の文面からは、手掛かりとなる欠片かけら心許こころもとないほどに少ないが、手紙の文面に「句会」という文字があることに一葉は注目した。

 鴎外は句会に参加したと書いている。句会というのは俳句を詠んで、その作品を参加者が互いに批評し合うつどいである。一葉は萩ノ舎の門人であり、古典文芸や書道のほかに短歌の稽古を積んでいる。

 一葉は俳句の句会に参加したことはないが、


  なほしげれくらくなるとも一木立ひとこだち


 というれ句を詠み、それを日記に残しているから、ほんの余興程度には俳句を詠んでいた。

 短歌と俳句は、字数や季語の有無など規則の違いがあるとはいえ、どちらも日本語の言語芸術の枠におさまっている。だから、俳句をする者が短歌に興味を持つということは十分に考えられることなのである。

 一葉は文机に頬杖ほおづえをついて、そんなことをずっと考えているうち、ふつふつと煮立つように興味が沸いてきて、

(美濃子さんのように相手の方が喜んでくれるのであれば行ってみようかしら)

 と思うのだが、今度はひとつの観念が邪魔をして水を差し、沸き立つ前のぬるい湯に戻すのである。

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