十一
と、そこに表通りから緑雨を呼ぶ男の声が聞こえた。
「車夫です。しばしおまちを」
緑雨は鴎外に断りをいれ、玄関先へ行った。
この家の玄関は部屋のすぐ横にある。
ところが、それを受け取ったあとも車夫は玄関先にとどまり、緑雨と世間話をしている。近所の
(いつまで話すつもりなのだろう)
鴎外は車夫の脈絡のない退屈な話に深いため息をついた。
車夫は客を乗せると車を引っ張り、目的地に向けて一心不乱に移動する仕事である。で、あるのに緑雨のお抱え車夫は寄り道が好きなようであった。
(よくもまあ、あれだけ話を続けられるものだ。いっそ
と、心の中でつぶやくと、
(もっとも聞く客などおらんだろうが)
鴎外は鼻で笑った。
それから数分ほど経って、
(帰ろう)
鴎外は決意した。彼は原稿の催促をするためにこの家にきたのであり、その用事はすでに済んでいる。来週に原稿を渡すと緑雨は口にしているのである。
鴎外はあらためて緑雨の部屋を眺めた。掃除は行き届いでおらず、辺りには反古紙や鼻紙が乱雑に投げ捨てられ、畳は
鴎外は不意に寒気を感じた。彼は極度の潔癖症であった。他人の家だから我慢をしていたが、車夫の無駄話を聞いているうちに心変わりし、一刻も早くこの部屋から逃げたい、という気持ちに変わっていた。
――そうとなれば。
鴎外が体を浮かそうと畳に手をつくと、
「そういやあ、使いは明日ですか」
車夫は話を本題に切り替えた。
「そうです。ただ今日の夜に書くつもりなので、まだ渡すものがないのです。前に告げたように明日の正午くらいにきてください。そのときに渡しますよ」
「それじゃあ、名前と場所をいますぐに聞いておきたいので教えてくれませんかね。地図に印をつけておかないと」
「ええ構いませんよ。樋口さんといいましてね。家は丸山福山町の四番地です」
という緑雨の言葉が鴎外の耳に鋭くはいりこんだ。その瞬間、鴎外は数日前の約束を思いだした。彼は身のこなし軽やかに腰を上げると、部屋から玄関口に顔を突きだして、
「斎藤くん、君はいま、樋口と言いましたね。それは一葉のことですか」
と、緑雨に問いかけた。緑雨はその声に驚いて振り返ると、
「そうです」
といって、鴎外の次の言葉を待っている。
「では君は一葉のことをお書きになるのですか」
緑雨はうなずき、
「そうなりますね。まだ何を、とはいえませんが」
と正直に真相を話した。
「明日、彼を使いに樋口さんのお宅へ手紙をだそうと思っているのです」
緑雨はそういうと目の前にいる
「森さん、このことは内聞にお願いしますよ。おわかりでしょうが文壇はうるさいので」
「このことが知れ渡ったら私か、そこにいる彼が犯人ですよ」
鴎外は笑いながらいった。緑雨は苦笑せざるを得なかった。鴎外の心は思いがけない幸運を得たことに沸き立っている。いますぐ家に帰ろうと即断し、
「斎藤くん、私はこれで失礼するよ」
「お帰りですか」
「君への用事は済んでいるのでね。原稿のことは頼みましたよ」
といって緑雨の下宿をそそくさと抜けだした。
そのあと、鴎外は表通りで人力車を拾うと駒込千駄木の自宅にむかわせた。車の中では先ほど耳にした一葉の住所を手帳に書きとめた。
鴎外は自宅に戻ると
そうした経緯が書かれたあとに、
「ヨロシケレバ彼ト会ツテイタダケナイダロウカ。彼トハ正岡トイウ新聞社デ働ク者デス。承諾シテ頂ケルノデアレバ予定ヲ伝エテホシイ。ソノトキニ彼ノ住所ヲ書イテ送リマス」
このような手紙の本題となる要件と、
「ソレトコノ一件ハドウカ斎藤緑雨ニハモラサナイデホシイ」
という一文が付け加えられていた。
鴎外はその手紙を封筒にいれ、七日のうちに投函し、その翌日に郵便配達夫から多喜に、そして一葉の手元に渡ったのである。
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