一葉が原稿用紙に筆を走らせていると、茶ノ間から邦子の大きな欠伸あくびが聞こえた。

 部屋の置き時計の針は午後二時を回っている。この間、小説の執筆は一枚も進んでいない。原稿用紙に文字を書いては屑籠くずかごへいれ、また書いては破り捨てることを繰り返している。

 茶ノ間に顔を向けると、邦子は小皿にのった数切れの羊羹ようかんをつまんで休憩をしていた。

(くうちゃんに投函を頼もう)

 一葉は緑雨宛の封書をつかんで邦子に声をかけようとすると、玄関先から表戸が開く音が聞こえ、

「帰ったよ」

 という声が部屋に響いた。

「おかかさま、おかえりなさい」

 邦子は手にしていた小皿を置くと、あがり口に駆けだし多喜を迎えにでた。それをみて一葉は封書を手放した。

 多喜は生活費を借りるために質屋に出かけていた。出がけに衣類を詰めた風呂敷を背にしていたが、手ぶらで帰宅したことから目的は果たされたのであろう。

 一葉が小説を書けば四百字詰めの原稿用紙一枚当たり四十銭程度の原稿料が手にはいる。当然のことながら、原稿料は小説を書かなければ手にはいらないが、この時代に印税という概念はなく頁単位での買い切りであった。だから一葉が継続して収入を得るためにはひたすら机にかじりついて小説を書き続けていかねばならない。

 ただし、一葉には小説の執筆以外にいくつかの収入源が存在している。

 萩ノ舎はぎのやを主宰する中島歌子は家の貧しい一葉を気にかけて塾の助教として、みずからの代わりに稽古をつけさせることで月二円の手当を与えた。

 さらに一葉は自宅で塾を開き、知人や友人たちに古典文芸や和歌を教えて月謝を受け取っている。一葉を不憫ふびんに思った周囲の者たちが、助力を与えてくれたのはかすかな幸運といえよう。

 本来であれば、萩ノ舎はぎのやの門下生である一葉は中島に認められない限り、歌塾かじゅくを興すことは不義理とされた。

 が、中島は樋口家の事情を知っていたために、それをとがめることはせず黙認した。

 なれど樋口家の家計は苦しく、それを補うためによわい六十近い老婆が市内を歩きまわっているのである。

「門前でお前宛ての封書を受け取ったよ」

 多喜は封書を一葉に渡した。

「車夫ですか」

 と一葉がいうと、多喜は顔をしかめて、

「なにをいっているんだい。配達夫に決まっているだろう」

 といった。門前から路地にはいったところで、郵便配達夫が声をかけてきたのだという。

 一葉は受け取った封書をみつめた。封書には紅色の菊二銭切手が貼られ、その上に「武蔵東京駒込廿九にじゅうく年一月七日ワ便」と印字された消印が押されていて、差出人は「駒込千駄木二十一番 森林太郎りんたろう」とあった。

 森林太郎。

 森鴎外おうがいのことである。

 文久二年岩見国にうまれた鴎外は、明治五年に上京し、翌年には「第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)」に入学した。

 そして、明治十四年に東京大学医学部(この年までに二度の校名改称があった)を卒業すると、陸軍の軍医となり、その後のドイツ留学を経て、明治中期以降に勃発した日清・日露の両戦争にも出征している。

 鴎外は医者でありながら、ドイツに留学した時期の体験談を短編小説「舞姫」に描き、そのあとも「がん」「山椒太夫」などの小説やゲーテの「ファウスト」の翻訳、評伝、随筆など多岐に渡る著作を持つ人物でもある。

 前年の明治二十八年、鴎外は日清戦争のあとに起こった台湾征討にも派遣されており、四ヵ月ほどその地で軍務につき、この秋には日本に戻った。

 彼は帰国すると、自身の主宰した『しがらみ草子』に続く新しい文学評論誌『めさまし草』の創刊に動いた。

 その同人には斎藤緑雨りょくうと幸田露伴ろはん(小説家)がいて、ほかには尾崎紅葉こうよう(小説家)や鴎外の妹の小金井喜美子(歌人・翻訳家・随筆家)と弟の三木竹二(劇評家・本名は森篤次郎とくじろう)などを文壇から集めた。

 鴎外から一葉宛ての封書の中身は手紙であった。一葉はひとまずそれを読むことにした。

 手紙の文面は時候の挨拶や非礼を詫びる言葉からはじまり、それに続けて手紙を差しだした経緯が書かれている。

「先日、アル句会ニ出席シ、貴方ノ話ヲシテイタトキ、ソレニ大変興味ヲ持ツ者ガイマシタ。機会ガアレバ会イタイト申スノデスガ、貴方ノ家ノ住所ヲ私ハ存ジアゲナイタメ、ソノ場ハ耳ニ留メルニ過ギナカツタノデス」

 句会から数日後の一月七日、鴎外は緑雨の住まいである本郷弓町の下宿先にいた。二人は月末に創刊する『めさまし草』について話をしているのである。締切も間近であるというのに、緑雨は原稿をいつまで経っても寄越さないので、鴎外は催促にやってきたのであった。

「題材は決まっているのです。来週には渡しますよ」

 緑雨は焦るそぶりをみせなかった。

「どういったものを書くおつもりですか。それだけでもお聞かせください」

 鴎外の問いかけに、緑雨は微笑みを浮かべるだけであった。

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