斎藤緑雨りょくうという人物から、一葉に一度目の手紙が送られてきたのは、明治二十九年一月八日のことであった。

 緑雨とは筆名のひとつであり、本名を斉藤まさるといった。彼は複数の筆名を使いわけて小説や書評を書いている。はじめは江東みどりの名で新聞に読み物を書いていたが、のちに斎藤緑雨の名で「かくれんぼ」や「油地獄」などの小説を書き、正直正太夫の名で書評を書いた。

 彼の真価は、小説よりも皮肉と風刺を散りばめた短文による文芸批評にあったが、度を越えた筆の表現に文壇の人々からは嫌悪されていた。

 その緑雨が、一月四日に発行された雑誌『国民之友』の巻末付録「藻塩草」に掲載されていた一葉の「わかれ道」を読んだあとに、「彼女が書いたほかの作品に比べると随分と見劣りがする」と感じた。

 ――なぜそう思うのか。

 緑雨は湯飲みをつかむと茶を一口すすり、そのあとで「わかれ道」を再び冒頭から読み返すことにした。

 途中、その原因がおぼろげながら浮かんできたが、そのまま終わりまで読み通した。

 緑雨は雑誌を読み終えると腕を組み、目をそっと閉じて思案した。

(そうか、そういうことなのだ)

 以前から緑雨は一葉の書く小説に注目していたが、この「わかれ道」には明らかな文章の乱れがあり、それが見劣りにつながっていると気付いたのである。一葉の筆が乱れたことについて、緑雨には心当たりがあった。

 もし、原因が緑雨の見当通りであるならば、それを黙って捨て置くことはできなかった。彼は一葉に忠告しようと思い、すぐに手紙を書いた。

 その手紙が丸山福山町四番地の借家に届けられたのは、八日の正午過ぎである。

(誰かやってきたわ)

 茶ノ間にいる邦子は門前から鳴る音に気づいた。静かな日中に限るが、門前の溝渠こうきょに架かる渡し板は、来客の訪問を伝える呼び鈴の役目を果たすのである。

 邦子は西側の雨障子を開き、訪問者の行き先を確認すると、玄関へ向かった。

 玄関の戸を開くと見知らぬ男が立っていた。男は丸みを帯びた饅頭傘まんじゅうがさをかぶり、半纏はんてんをゆるりとはおり、脚部を下履きで窮屈に締め付け、足には薄い草鞋わらじを履いている。その男は邦子を見るなり、

「樋口一葉さんのお宅ですか」

 と尋ねた。邦子はうなずいた。

 男はみずからを車夫と名乗り、斎藤緑雨の使いで封書を持ってきた、と要件を告げると、手にしていた封書を邦子に託して去っていった。

 邦子はすぐに一葉のいる書斎に向かうと、

「車夫が封書を持ってきましたよ。斎藤緑雨さんという人からだそうです」

 といって、一葉に封書を手渡した。すると一葉は眉をひそめて、

「配達夫ではないのですか」

 と聞き返すと、邦子は深くうなずき、

「傘をこう……半纏をはおって……」

 と、身振り手振りを使いながら、たどたどしく男の身なりを説明した。

恰好かっこうは車夫のようだけれど……門前に車はありましたか」

「それはみていないからわからないわ。でも封書を持ってくるのに車はいらないでしょうに」

 と邦子はおかしがった。一葉は、それに納得すると苦笑した。

 世の中には葉書や封書を配達する郵便配達夫という職がある。そういう専門の職があるというのに、緑雨は車夫を使いにして封書を差しだしたのである。

(どういう理由があるのだろう)

 一葉はいぶかしげに手のひらにある封書をみつめたが、とりあえず封を開けてみることにした。封書の中には一枚の手紙が四つ折りにされておさまっていた。

 その手紙は「われハ申すまでもなく君に処綠しょえんあるものニそうろはず」という書きだしからはじまった。

 一葉は緑雨に会ったことはなく、封書が送られてきたのも、この日が最初であった。

 しかし、緑雨の悪評については以前から耳にしていたので、彼の名前を知っていたのである。

 その緑雨が「文壇について一葉に忠告したいことが二三にさんある」と書く。緑雨の筆はさらに続き、その忠告を「筆にてすへきか口にてすへきか ただし我れに一箇の癖あり われより君をとぶらふ事を好ますそうろう」という。つまり緑雨の忠告を、手紙で読むか、緑雨宅を訪ねて口頭で聞くか、それを一葉の方で選べというのである。

 そして緑雨は「君が嫌だというなら強いることはしないが、もし聞きたいのであれば、内容を他人に漏らさないという誓約をして欲しい」と書き、彼は文章を結んだ。

 緑雨の文芸批評は不興ふきょうこうむる文章であったが、それに比べると、彼が差しだした手紙は別人のように謙虚で控えめな文章であった。

 一葉は、人に対して強い興味と関心を抱く癖があり、そういう習性が緑雨に向けられ始めている。緑雨の忠告を受けてみたいと一葉は思っているが、彼に会うことには躊躇ちゅうちょしていた。一葉の粘り気の強い習性も、毒気の強い緑雨に対面するのは一抹いちまつの不安を抱かせ、せめて一拍置いた位置からこの男を見定めたいと思っているのである。

 とすると一葉に用意された手段は手紙での忠告となる。

 一葉は筆硯ひっけんを取りだすと墨を磨り始めた。しばらく書斎にはすずりと墨とがこすれあう音だけが響いていたが、硯の墨溜まりが濃く色づくのを見ると筆を取り、半紙に墨をのせていった。

 一葉は緑雨宛の手紙を書き終えると封筒に手紙をいれた。それを投函しに行かねばならないが、茶ノ間にいる邦子は熱心に針仕事をしていて声をかけづらかった。

 やむなく一葉は締め切りの近い小説を書くことにした。

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