短い食事を終えると邦子は膳を片付けて、台所で食器を洗い、また茶ノ間に戻った。

 茶ノ間では一葉が衣桁いこうの前に立って寝巻から着物に着替えている最中であった。邦子はそれをみて、そっと手を貸してやった。

「水を汲みにでたらね。お美津さんに会ったの」

 といってから、邦子は一葉の背中に回り、姉の細い腰に腰紐を巻き、それから丈合わせのお端折はしょりをつくってやった。

「あの方がこの時間から井戸端にいるなんて珍しいわね」

 一葉は首をかしげた。

「そうじゃないのよ」

 邦子は早朝に起きた出来事を子細に語ったあと、

「なんだかお美津さんは焦っているような感じがしたのだけれど、私の気のせいでしょうかねえ」

 というと衣桁に掛けられた帯を持ち、一葉の腰部に巻いていった。なすがまま、帯に巻かれる一葉は、

「ねえ、のちほどっていつなのかしら」

 と、脳裏に浮かんだ言葉をつぶやくようにいった。

「あの言い方であれば、午前中にはいらっしゃるのではないかしら」

 といってから、邦子はすぐに自分たちにも用事があることに気付き、

「でも、それでは困りますねえ」

 といった。それを聞き、一葉はうなずいた。

 姉妹は午前中に出かける用事があったから、日中に一葉が代筆をすることは難しい。もし美津が急いでいるならば、今夜や明日というわけにはいかないだろう。

「終わりましたよ」

 邦子は着付けが終わったことを一葉に知らせると、帯の上に結んだ萌葱色もえぎいろの帯締めをギュッと締めてやった。

 一葉は邦子に礼をいったあと、茶ノ間にいる多喜に、

「母上は外出なさいますか」

 と尋ねた。

「どこにも出かけませんよ。しかしお前たちが留守中に訪ねてくると困るねえ。私はあの人が苦手だよ」

 多喜は顔をしかめた。

「まあ、はっきり仰る」

 多喜の言葉に一葉は眉をひそめた。

「お前たちはいつ戻ってくるんだい」

 という多喜の問いに一葉は困惑した。訪問先には昼前に着くことを告げているが、いつ家に戻るのかはまったくわからない。その様子を眺めていた邦子は、

「では、戻り次第こちらから伺うと、いまからお美津さんに伝えてきましょうか」

 と、聞くと、

「そうしなさい」

 多喜は言下に答えた。邦子は立ち上がると隣家に出かけた。

 ところがすぐに邦子は借家に戻ってきた。美津がやってきた、というのである。それを聞くと一葉はうなずき、

「では、次ノ間にお通ししてちょうだい」

 といって書斎へゆき、部屋と部屋とを仕切るふすまを閉じた。

 邦子は美津を家に招き入れ、廊下を通って書斎に向かった。

 美津を書斎にいれたあと、邦子は茶を運んだり、すずりで墨をすったりして忙しく働き、それらを終えると茶ノ間に戻った。多喜はなにか言いたげに邦子の顔をじっとみつめている。

「どうされました」

 邦子は小声で多喜に喋りかけた。

「なんでもありませんよ」

 娘とおなじように小声で喋る多喜の表情は渋面であった。

 書斎から一葉と美津のやりとりが聞こえてくるが、その詳細は茶ノ間からでも聞き取れない。

 代筆が終わるのをただ待つよりも、邦子は出かける準備をしてしまおうと巾着袋を手に取った。巾着の中には髪結いや化粧に使うくしや紅入れなどの道具がいれられている。

 邦子はまず髪を結い直した。下ろした毛髪を櫛で滑らかに整えていき、それが終えると頭頂部に近い毛髪を分け取ってまとめ、元結もとゆいで髪の根を縛った。これをもとどりといい日本髪の頭頂部を形成している。

 続いてたぼ(後頭部)とびん(両側頭部)と、それに前髪を順に結ってもとどりの根にまとめていった。もとどりは毛髪を左右に分けてふたつの小さな輪をつくるのに使う。これは銀杏返いちょうがえしという髪型で、邦子は器用に一人で結ってしまう。

 髪結いの仕上げに、巾着袋の中から根掛けを取りだし、もとどりの根に結んだ。根掛けは装飾品の一種であり、邦子の根掛けは九つの珊瑚玉に綿のり糸を通したもので、これは邦子が誕生日の祝いに一葉から贈られたものである。

 それから手鏡を持ち、髪結いの仕上がりをみて、しまいに薄い紅を唇にさした。

 銀杏返しを装飾するのは根掛けのみであるし、顔の肌を虚飾で覆う白粉おしろいをはたくこともない。そのなりは地味であるが、面長で一重瞼ひとえまぶたで唇の薄い整った顔立ちには、薄い紅ひとつでも可憐に見えた。

 邦子が髪結いや化粧を終えて少し経つと、書斎から廊下側の襖が開く音がして、しきりにお礼をいう美津の声が聞こえた。

 一葉が美津の代筆を終えたのは家に招き入れてから三十分ほどであろう。

 邦子は美津を門前まで送った。美津は代筆してもらった葉書を持って、さっそく郵便局に行くという。木戸を開いて表通りにでると、邦子に深いお辞儀をした。

 そのとき、美津の目にたまっていた涙がしずくとなってこぼれ落ち、地面を少しばかり濡らしていた。

 美津を見送ると、邦子は家に戻った。一葉は文机ふづくえに向かって黙って座っている。邦子はそれを見て、一葉の背中に回って髪結いを始めた。

 一葉が邦子に身支度を任せ始めたのは萩ノ舎はぎのやという上流階級の通う歌塾かじゅくに通うようになってからである。きらびやかな歌塾に行くのに下手な髪結いではみすぼらしいと、邦子が手伝ったことに始まる。

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