邦子は早朝からひたすら水汲みずくみを続けている。

 井戸は滑車を使って水を車釣瓶くるまつるべである。石積みの井戸枠は筒型で、上には屋根のない片持ちはりがあり、シュロで編んだ縄が滑車を通っており、縄の先には釣瓶つるべが結ばれていた。

 水汲みは井戸の中に釣瓶を放り込むことから始まる。水面に漂う釣瓶に井戸水を満たし、縄をたぐりよせる。汲み上げたら井戸端に置いた手桶に水を注ぎ、それを借家の台所まで運び、今度は水瓶みずがめに注いでゆく。これを何度か繰り返し、その日に使うだけの水をかめに注ぎ入れると、邦子は井戸端に戻って釣瓶に残った水で顔を洗った。

(つぎは食事ね)

 借家に戻ろうとすると、美津が路地の角からあらわれて鉢合わせとなった。

「おはようございます。この時間であれば井戸に出ていると思いまして」

 といって美津は邦子に会釈をした。美津は柿渋色かきしぶいろのどてらを首元まで覆うようにはおっていて、起き抜けに家を出たようなような恰好かっこうをしている。その地味な身なりに比べると、美津の顔立ちは夜更けの酌婦たちのような妖艶ようえんさをかもし出している。

 美津は井戸周りと邦子を交互に見ると、

「水汲みは終わりましたか」

 と聞いた。間近に立つ美津の背丈は邦子よりずっと高い。邦子は明治の女性としては大柄な五尺三寸の体躯たいくを持つが、美津に対して目線を上目にしなければならなかった。

「いましがた終えたところですよ。お美津さんも水汲みですか」

 邦子はほがらかにいった。美津はかぶりをふってから、

「朝早くに悪いのですが、葉書を書いてほしいのです。お夏さんはもう起きていらっしゃいますか」

 と、要件を告げた。

「夜遅くまで起きていたから、まだ寝ていると思いますよ」

 邦子が正直に話すと、

「そうですか」

 美津はわずかに唇をかんだ。

「急ぎであれば起こしてきましょうか」

 邦子は気づかう言葉を投げかけるが、美津は首を横に振って、

「いえ、またのちほどうかがいます」

 といって足早に自宅へ戻っていった。

(お美津さん、どうしたのかしら)

 早朝にみかけることのなかった人が、気ぜわしい様子で訪ねてきたのである。美津になにかあったに違いない。邦子はしばらく立ち尽くして考えていたが、凍えるような寒さを全身に感じると、われに返って借家に戻った。

 借家に戻ると、まず茶ノ間の様子をみにいき、多喜が一人でいるのを確認するときびすを返して台所に向かった。

 台所の洗い場には前日に炊いた米が飯櫃めしびつにいれられていたが、厳しい寒さに米粒は凍り付いていた。邦子は凍結した米粒をかまどにいれて炊きなおしたが、米は粒がみえないほどにとろけてしまい、粥のようになってしまった。

 この日の朝食はとろけた粥と、千切りした大根を少しいれた味噌汁と、数切れのたくあん漬けであった。

 邦子はそれを三膳用意すると、茶ノ間に一膳ずつ運んでいった。茶ノ間と台所を往復していると、起床した一葉が台所へ向かうのがみえた。顔を洗いにいったのであろう。邦子はその背中に向かって、

「なっちゃん、食事の用意はできていますよ。手ぬぐいは洗い場の横に用意してありますからね」

 と呼びかけると、一葉はけだるそうに顔を動かし、軽くうなずいた。

 しばらくすると一葉が茶ノ間にあらわれ、多喜と邦子に挨拶をしてから火鉢のそばに座った。上半身を前かがみにして、膝を折って座る一葉の姿態は、まるで腰が屈曲した老人のようにみえた。一葉は眠たそうに欠伸をひとつした。

「まあひどい顔をして」

 多喜は湯飲みに熱い湯を注ぐと一葉の膝元近くに置いてやった。彼女はその湯飲みを両手で包むように握り、

「今日は寒いですね」

 といってから口元まで持っていき湯をすすった。

「あなたたちはおなじようなことをいうねえ」

 と多喜は笑う。

「なんの話です」

 一葉は不思議そうに多喜をみつめた。

「なんでもありませんよ」

 というが多喜はほほえみを崩さない。

「さあさあ、温かいうちに食べましょうよ」

 といって邦子が膳の前に座ると、多喜や一葉も座りなおした。

 三人はそれぞれ茶碗を持ち、箸を使ってゆるくなった粥を口に運び、汁椀に持ち替えて味の薄い味噌汁をすすり、ときどきたくあん漬けを口にして歯で噛み切った。茶ノ間にはしばらくの間、口中と食器の奏でる幾多の音色が鳴っては止み、また止んでは鳴ったりを繰り返していた。

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