七
邦子は早朝からひたすら
井戸は滑車を使って水を
水汲みは井戸の中に釣瓶を放り込むことから始まる。水面に漂う釣瓶に井戸水を満たし、縄をたぐりよせる。汲み上げたら井戸端に置いた手桶に水を注ぎ、それを借家の台所まで運び、今度は
(つぎは食事ね)
借家に戻ろうとすると、美津が路地の角からあらわれて鉢合わせとなった。
「おはようございます。この時間であれば井戸に出ていると思いまして」
といって美津は邦子に会釈をした。美津は
美津は井戸周りと邦子を交互に見ると、
「水汲みは終わりましたか」
と聞いた。間近に立つ美津の背丈は邦子よりずっと高い。邦子は明治の女性としては大柄な五尺三寸の
「いましがた終えたところですよ。お美津さんも水汲みですか」
邦子は
「朝早くに悪いのですが、葉書を書いてほしいのです。お夏さんはもう起きていらっしゃいますか」
と、要件を告げた。
「夜遅くまで起きていたから、まだ寝ていると思いますよ」
邦子が正直に話すと、
「そうですか」
美津はわずかに唇をかんだ。
「急ぎであれば起こしてきましょうか」
邦子は気づかう言葉を投げかけるが、美津は首を横に振って、
「いえ、またのちほど
といって足早に自宅へ戻っていった。
(お美津さん、どうしたのかしら)
早朝にみかけることのなかった人が、気ぜわしい様子で訪ねてきたのである。美津になにかあったに違いない。邦子はしばらく立ち尽くして考えていたが、凍えるような寒さを全身に感じると、われに返って借家に戻った。
借家に戻ると、まず茶ノ間の様子をみにいき、多喜が一人でいるのを確認すると
台所の洗い場には前日に炊いた米が
この日の朝食はとろけた粥と、千切りした大根を少しいれた味噌汁と、数切れのたくあん漬けであった。
邦子はそれを三膳用意すると、茶ノ間に一膳ずつ運んでいった。茶ノ間と台所を往復していると、起床した一葉が台所へ向かうのがみえた。顔を洗いにいったのであろう。邦子はその背中に向かって、
「なっちゃん、食事の用意はできていますよ。手ぬぐいは洗い場の横に用意してありますからね」
と呼びかけると、一葉はけだるそうに顔を動かし、軽くうなずいた。
しばらくすると一葉が茶ノ間にあらわれ、多喜と邦子に挨拶をしてから火鉢のそばに座った。上半身を前かがみにして、膝を折って座る一葉の姿態は、まるで腰が屈曲した老人のようにみえた。一葉は眠たそうに欠伸をひとつした。
「まあひどい顔をして」
多喜は湯飲みに熱い湯を注ぐと一葉の膝元近くに置いてやった。彼女はその湯飲みを両手で包むように握り、
「今日は寒いですね」
といってから口元まで持っていき湯をすすった。
「あなたたちはおなじようなことをいうねえ」
と多喜は笑う。
「なんの話です」
一葉は不思議そうに多喜をみつめた。
「なんでもありませんよ」
というが多喜はほほえみを崩さない。
「さあさあ、温かいうちに食べましょうよ」
といって邦子が膳の前に座ると、多喜や一葉も座りなおした。
三人はそれぞれ茶碗を持ち、箸を使ってゆるくなった粥を口に運び、汁椀に持ち替えて味の薄い味噌汁をすすり、ときどきたくあん漬けを口にして歯で噛み切った。茶ノ間にはしばらくの間、口中と食器の奏でる幾多の音色が鳴っては止み、また止んでは鳴ったりを繰り返していた。
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