鈴木亭が店を開いたのと時を同じくして、隣家の紀川美津が一葉を訪ねている。

 その日、太陽が南中に差し掛かった頃、雲ひとつない澄みきった空が広がっていた。

 一葉は書斎で小説を書いていた。その隣の茶ノ間では邦子と多喜が浴衣を仕立てなおしている。

 二間ふたまを仕切るふすまや障子は開け放たれているので、涼やかな風が室内を通り抜けてゆく。

 だが、太陽が傾げると、次第に厚い雲が空を覆っていき、間髪をいれずに雨粒が町を濡らしていった。

 邦子は屋根を叩く雨粒の音に気付くと、急いで部屋の障子を閉めていった。それが終わると再び浴衣の仕立てに取り掛かろうとするが、

「いま外から声が聞こえませんでしたか」

 とかたわらにいる多喜に話しかけた。

「なにも聞こえませんよ。雨音でしょう」

 多喜は針を運ぶ手を手を休めずにそっけない返事をした。

「あ、ほらまた。みてきます」

 といって邦子は玄関先にでると、傘も差さず雨滴に全身をさらした縹色はなだいろ単衣ひとえを着た女が立っていた。邦子は女の顔をみて戸惑った。それは希薄な関係から起こる健忘のようなものであったが、すぐに隣の家に住む紀川美津という名の女であることを思いだし、

「……まあ濡れてしまって」

 邦子は美津を家に招き入れ、自身は茶ノ間へ駆けだした。そして手ぬぐいを何枚か抱えて玄関へ戻ると、美津の後ろに回って水気を拭った。

 玄関は一畳ほどしかないから、美津は動けずに邦子のなすがままにされ立ち尽くしている。邦子は手ぬぐいを持つ手を動かしながら、

「御用をお聞きしますよ」

 というと美津は、

「突然のことで申し訳ないのですが、葉書を書いてほしいのです」

 顔だけを邦子のほうへ向けていった。

「姉ですね。書斎にいますから、拭き終わったら取りつぎましょう」

 邦子はそういうと、雨に濡れた美津の身体を急いで拭いてやった。

 書斎に通された美津は、単衣のたもとから油紙に包んだ封筒と葉書を取りだし、

「少ないのですが」

 と一葉の膝元近くに封筒をうやうやしく差しだした。中身はみえないが、美津の様子から封筒の中身は謝礼金に違いない、と一葉は感じ、

「謝礼は頂いておりませんよ」

 といって封筒を美津の膝元へ戻してやった。

「よろしいのですか」

「これは慈善のようなものですから構いませんよ。朋輩ほうばいの皆さまからもいただいておりません」

「ほうばい……」

 と美津は口にしたあと、しばらく考え、やがてその言葉の意味を理解すると、

「あら、いやだ」と言い、手のひらを口にあて、「私、鈴木亭では働いていませんわ」

 といって顔をほころばせた。それを聞いた一葉は顔を真っ赤にして、

「失礼しました。隣の皆さまと水汲みずくみをしているのをみかけたものですから」

 と謝った。

「いっしょになって水を汲んでいれば、はたからみればそうみえますものね」

 美津は水汲みをしていたときに、鈴木亭のお留から手紙や葉書の代筆を一葉がしていることを聞いた、ということを打ち明けた。

「では、文面を考えましょうか」

 一葉は美津から葉書を受け取ると、まず要件を聞き取り、続いて文章を思案し、最後に彼女から承諾を得ると、邦子へ声を掛けてから文机ふづくえに向かった。

 邦子は多喜のいなくなった茶ノ間に美津を招くと、いつものように依頼主の喋り相手となった。

 こういうとき、個人の性格にもよるのであろうが、たとえば酌婦のお留は出自や姓名のほか、聞きたくもない客との破廉恥な情事まで臆することもなく語るが、美津の場合は雑談には応じるものの自身の過去に触れることはついぞなかった。

 一葉は筆を動かしながら宛名の相手に思いを巡らせていた。

 住所は下谷区下谷龍泉寺町三四八番地、宛名は紀川様方のミイちゃん。美津はそのように書いてほしいと希望した。

 くだんの住所は一葉が過去に小店を開いていた場所(下谷龍泉寺町三六八番地)の裏手にあった。それに下谷龍泉寺町では九か月ほど家族と暮らしていたから一葉には土地勘がある。

(たしか、うちの裏手は妓楼ぎろうの寮であったはず)

 ということは美津は遊郭に関係する者なのだろうか。するとミイちゃんとは何者なのだろうか。この間、一葉の筆は止まった。文机に頬杖をつき、窓越しに南面の庭を眺めるが答えは出る訳もなく、はっと我に返ると再び筆を進めて文面を書き終えた。

 あとは葉書の表面に宛先と宛名を書けば代筆は終わるはずだったが、一葉はだしぬけに、

「宛名はミイちゃんで本当によろしいのですか?」

 と振り返りながら美津に質問した。

「ええ、それでお願いします」

 美津は動揺することなく答えた。それを聞いた一葉は、

(しまった)

 と思った。

 一葉は代筆をするにあたって相手の言葉に疑問を持たず、希望を叶えてやることを第一に考え、助言や詮索はしないと決めていたからである。そのように決めていたはずなのに、喉元で抑えられず口にしてしまったのは、土地勘のある住所を目にしたことから好奇心が刺激され、美津とミイちゃんの関係性に強く興味を抱いてしまったからであろう。

 結局、一葉は美津から回答を得ぬまま――決めごとを守るため――代筆した葉書を渡した。

 この日から美津は短ければ週に一度、長くとも月に一度は代筆を頼みに一葉を訪ねてきたが、その文面は時候の挨拶に加えて、ミイちゃんの生活や体を気遣うごくありきたりな内容が多く、そのうちに一葉はミイちゃんへの興味を失っていった。

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